台湾民報
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台湾民報(たいわんみんぽう)は、日本統治時代の台湾に於いて、台湾人により創刊された新聞。雑誌の『台湾青年』、『台湾』を前進とする。
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[編集] 沿革
[編集] 東京時代
1923年4月15日、東京に於いて『台湾民報』が創刊された。前身の雑誌『台湾青年』や『台湾』が日本語と中国語を混用していことに対し、『台湾民報』では全て中国語により記述がなされていた。当初は隔週刊であったが、10月15日に季刊にあたらめられ、日本語版も創刊された。1925年7月12日には週刊(日曜日)に改められると同時に王敏川を社長とする台北支社を設置した。
[編集] 台湾時代
『台湾民報』が創刊される以前、一部の人々により台湾での発行が主張された。しかし台湾総督府との関係で台湾での発行計画は実現されることは無かった。第3代文官総督である伊沢多喜男が着任すると、かねてからの懸案であった遷台の契機が訪れた。1927年8月1日、『台湾民報』は日本語版を発行する条件で台湾での発行が認可された。1930年には増資と組織改編を行い、誌名を『台湾新民報』へと改称している。1932年4月15日、総督府より日刊紙としての発行が認可され、台湾での世論形成に大きな影響を与える言論機関として成長した。
[編集] 内容
『台湾民報』は1920年代から30年代にかけ、台湾での各種社会運動に大きな影響を与え、また同時代の台湾史を研究するに不可欠な資料である。『台湾民報』は台湾議会設置請願運動以降の政治、社会運動を積極的に支持し、台湾自治を要求するとともに、新文芸運動では白話文運動などに少なからず貢献し、台湾新文学の先駆者であった。これ以外に新知識、新思想を紹介し、中国政情に関する報道として軍閥の抗争や蒋汪対立等を積極的に報道し、読者の支持を獲得、最盛期には1万部を突破する、日本人により設立された『台湾台灣日日新報]]』と並ぶ大新聞であった。
編集方面では新文学運動の旗手張我軍、医師兼小説家である頼和、文学科の楊雲萍、台湾最初の医学博士である杜聡明等を迎え、総督府の施政に対する批判及び諷刺を行なった。そのため検閲対象となり、最長44日間の発行停止を命じられたことも有る。
[編集] 没落
日中戦争による言論統制が強められる中、『台湾民報』に対する規制も次第に強いものとなってきた。1937年6月1日、遂に中国語版が停刊となり、1941年2月には常務董事兼総経理である羅万陣及び主筆兼編輯局長の林呈祿により、『台湾新民報』は『興南新聞』と改称され、施政批判色を薄めた言論内容での発行となった。戦時統制下の1944年4月、日本政府主導により台湾の主要新聞6紙である『興南新聞』、『台湾日日新報』、『台湾新聞』 、『台湾日報』、『東台湾新聞』、『高雄新報』を統合し『台湾新報』が誕生した。戦後『台湾新報』は国民政府により接収、『台湾新生報』と改称されることとなった。