日本統治時代 (台湾)
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台湾の日本統治時代は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。
なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合は日本統治時代に対し特に批判的な意味合いがある。
目次 |
[編集] 台湾民主国の建国と武装抗日運動
1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。
しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を作り、丘逢甲を義勇軍の指揮官となし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍はあっというまに総崩れになった。台南の劉永福は軍民を指揮し各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力、武器の差により敗退した。10月下旬に劉永福が大陸に渡り、日本軍が台南を占領し台湾民主国は崩壊した。台湾軍民で戦死又は殺害された者は14000人に及んだ。
だがその後も農村を中心に日本への抵抗運動は続き、参加した民衆は多いときで数千人、少ないときでも数百人で、ゲリラ戦法をとり日本人に大きな打撃を与えた。当初、総督府は報復的鎮圧のため無差別殺傷を進め、逆に抗日運動が強まった。1898年、台湾総督であった児玉源太郎は鎮撫と策略の方法を採用し、武力鎮圧を進めると同時に抗日勢力の投降を勧誘した。1902年には各地の抗日勢力は崩壊し、民間が所有する武器は没収された。これらの抗日運動で戦死又は逮捕殺害された者は1万人余りに上った。
1907年から1915年にかけて10を越す抗日事件が発生したが、1915年の西来庵事件を最後に、漢民族による武装抗日運動は収束した。
[編集] 台湾統治政策の変化
台湾の統治に際しては総督府(台湾総督府)がおかれ、台湾総督がこれを掌握した。台湾総督には陸海軍大将・中将が任命され、独立運動や抵抗運動に対して弾圧を行った。そして次第に政情が安定化するにつれ文官が統治における主導権を握るようになった。
台湾は日本の初めての海外領土であり、日本政府はかなりの情熱と資金をこの島に注いだ。民政長官後藤新平をはじめとした人材もその一つであり、日本は欧米から一目置かれるような植民地経営を目指していたと言われる。
そのため、ほぼ本国から省みられることのなかった清国領土時代に比べると、統治時代を通して台湾の交通、産業、教育等のインフラはある程度整備されることになった。このため、台湾では長期に渡り高い出生率を維持し、死亡率は低下した結果、1896年当時の260万人から1943年の660万人(在台日本人含む)まで人口は増加した。また阿片が流行していたが免許制にして、だんだん税を上げることで阿片を追放することにも成功した。そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する人もいる一方、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため、工業発展は遅れたと主張する意見もある。
[編集] 現地住民による政治運動
1914年、台中霧峰の著名な土着地主資産家である林献堂は、来台した板垣退助と力を併せ、在台日本人と同等の権利を求める台湾同化会を設立する。しかし、板垣が台湾を離れると、台湾総督府により解散させられてしまう。
その後、台湾総督府の専制を認めた六三法の撤廃を求めて啓発会が、その解散後は新民会が結成される。知識人階級の間から「六三法撤廃は台湾の特殊性を否定することになる」という批判が出始めると、台湾に議会設置を求める台湾議会設置運動が始まる。1921年、第一回台湾議会設置請願書を大日本帝国議会に提出すると、以降13年15回にわたって継続的に行なわれた。
1921年には、「台湾文化を助長する」を目的として、林献堂を総理として台湾文化協会が設立される。台湾文化協会は、各地で講演会や映画上映などを行い、大衆啓蒙運動を展開した。しかし1927年、左派が協会の主導権を握ると、右派は相次いで離脱し、台湾における政治運動は分裂することになる。台湾文化協会は事実上台湾共産党の支配下に入り、台湾共産党が一斉検挙されると同時に台湾文化協会も崩壊した。
離脱した右派は、その後台湾民衆党を結成。しかし、台湾民衆党も蒋渭水により左傾化すると、右派は台湾の地方自治実現を単一目標に挙げる地方自治連盟を結成した。1937年、日本統治期最後の政治団体である地方自治連盟が解散に追い込まれ、「台湾人」による政治運動は終わりを告げた。
その後は、総督府により「皇民化」政策が推し進められることになるのである。
[編集] 日本統治の功罪
鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増大した。戦争になると台湾の豊富な食料物資が内地への供給に貢献したほか、高雄には飛行基地が建設されるなど、日本人と同様に台湾人も兵士や労働力として活躍した。しかし日本人学校と台湾人学校の区別のほか日本人の間には台湾人に対する差別意識も存在しており、戦時中には皇民化政策により日本人との同化が義務化されるなどの政策が行われた。
また、当時理蕃政策といわれた先住民に対する統治では、結果的に先住民の教育水準が一定程度の向上を見せ、又、法的には日本人や中国系住民とほぼ同等の権利の保障が認められるようになったが、一方で社会的な差別は根強く残存した。
さらにこうした差別や、経済的・政治的格差に対する反発から、植民地統治に反抗する武力蜂起も数多く起こった。こうした武力蜂起は日本警察や軍隊により悉く鎮圧され蜂起に参加した者の多くは逮捕、もしくは殺害された。特に、日本統治時代最大規模の武力蜂起である霧社事件の際は、鎮圧への毒ガス使用が検討された(実際に使用されたかどうかについては諸説ある)。また、蜂起した原住民部族に対する出草(首狩り、理蕃政策の一環として法律で規制されていた風習)が、鎮圧に協力した部族に許可された。このため、事件前に1400人だった霧社地区の人口は、事件後500人にまで減少した。
1942年には台湾で陸軍特別志願兵制度が始まり、1944年には徴兵制も実施され、それに伴い、台湾からも衆議院議員を選出できるようになった。約20万人余りの台湾人日本兵(軍属を含む)が日本軍で服務し、約3.3万人が戦死または行方不明となった。先住民族からなる高砂義勇隊は南方戦線で大きな活躍を見せた。
[編集] 戦後の評価
台湾では戦後、国共内戦の結果やってきた中国国民党が、それまで台湾に住む本省人を弾圧(白色テロ)した。1947年におきた二・二八事件はそのなかでも最大のものである。また大陸反攻を国是とし、軍事を優先とされたため、台湾省内のインフラ整備は後回しにされた。このため一部の本省人は「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と大陸からやってきた人間を揶揄し、日本の統治時代を相対的には肯定した。
前総統の李登輝は国民党の独裁体制を廃し、台湾内での民主化を導いた。彼が総統の時代に作られた台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」では、従来地方史として軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じた。ここでは日本の統治時代を、『「苛烈な」時代ではあったが、今現在の台湾があるのは統治時代があったからだ』と総括した。
総統引退後の李登輝は、台湾の中華民国(中国)からの独立を訴えた。その中で彼は国民党の批判にあわせ、公然と日本の統治政策を評価し、支持者もそれに準じた。
その一方で台湾は中国の一部であると認識する勢力(親民党・国民党)、及び台湾独立派の中でも台湾主体意識が徹底した人々は李登輝らの動きを売国的であると批判し、日本統治時代についても日本による搾取に過ぎなかったと位置付けている。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 台湾の歴史 | 日本の国際関係史 | 日本の歴史関連のスタブ項目