吉見広頼
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吉見 広頼(よしみ ひろより、天文4年(1535年) - 慶長18年(1613年))は毛利氏の家臣。石見の国人吉見氏の当主。吉見元頼、吉見広長、女子(益田広兼妻)、女子(毛利就頼妻)の父。津和野三本松城城主。三河守。
吉見氏は平安時代の武将、源範頼の子孫であり、石見の吉見氏はその傍流とされる。
吉見正頼の嫡男であった。父が陶晴賢と対立し、籠城戦の末に一時降伏した際に人質となったが、厳島の戦いにより陶氏が滅びると開放された。のちに父から1582年に家督を譲られ毛利隆元の娘を娶った。病弱で父ほどには信任を受けなかったが、毛利氏に忠実に仕えた。妻に先立たれ、嫡男は朝鮮の役で陣没したため、次男の広行(広長)に家督を譲り隠居した。しかし、広長は毛利氏に反抗的で、一時出奔するなどしたため広頼はその帰参に腐心することになる(のち、広長は広頼の死後に讒言を受けて殺された。)。後妻や娘たちも広頼よりも早く先立つなど、家庭的に不遇な人生を送った悲劇の戦国武将であった。