四諦
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基本教義 |
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
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四諦(したい、catvaari aaryasatyaani、चत्वारि आर्यसत्यानि)
四聖諦ともいわれる。聖諦とはサンスクリット語で「神聖なる真理」という意味である。パーリ語では「アリヤ・サッチャーニ」(ariya-saccaani)といわれる。
釈迦は成道の後、鹿野苑(ろくやおん、ベナレス)において、初めて五比丘のために法を説かれた(初転法輪)。この時、釈迦はこの四諦を説かれたといわれ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
四つの真理とは、
- 人生は苦であるという真理と、
- その苦の原因は人間の執着にあるという真理と、
- この苦を滅した境地が悟りであるという真理と、
- その悟りに到達する方法は八正道であるという真理である
であり、これを順に苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦と呼ぶ。
このうち前2者は流転の因果を示すものであり、後2者は悟りの因果を示すものである。
この四諦は仏陀が人間の苦を救うために説かれた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ、と言われている。
目次 |
[編集] 苦諦(duHkha-aaryasatya)
苦諦とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
これに、愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)、憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)、求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)、最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)または「五取薀苦」(ごしゅうんく)を加えて「八苦」と言う。
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。
[編集] 集諦(duHkha-samudaya-aaryasatya)
集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。
この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは「duHkha-samudaya-satya」とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
上記の記述の批判として、集諦とは、苦の原因の事である。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。
だから、苦の原因は、十二縁起から、「無明」であると単純に考える人達が多いであろう。
しかし、苦とは、十二縁起のシステムなのである。
十二個集まってそれ全体が苦なのである。
だから、「無明」だけが苦ではなく、「愛」も苦の一部でしかない。
だから、「渇愛」や「愛欲」だけが、苦の根本原因であり苦集諦であるという説に関して、私は異を唱える。
[編集] 滅諦(nirodha-aaryasatya)
滅諦とは、苦滅諦といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。
[編集] 道諦(maarga-aaryasatya)
道諦とは苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行をいう。これに八正道が説示される。
初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したものであり、後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものである。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「八正道」であり、聖なる道を実現するから「八聖道」ともいわれる。
以上「根源仏教」的見地。
この上記の記述に関して、「煩悩」を苦の原因とするのには異を唱える。 それよりも、十二縁起から、「無明」を苦の原因とする方が、妥当な思考と言える。 滅諦の悟りから、「無明」を「智慧」に変え、十二縁起でできあがっている苦の構造に影響を与えれば、苦はまたたくまに解放されるだろう。 例えば、ここで言う所の煩悩の元である愛に関して、今まで無明の愛だったのが、悟りを得て智慧の愛に変わり、本当の愛し方が分かるようになり、苦を滅して喜びを得るのが悟りというものであろう。
以上「大乗仏教」的見地。
大乗仏教的見地による「苦を滅して喜びを得るのが悟りというもの」では所謂「涅槃寂静」が成立し得ないと思われる。
「涅槃寂静」とは、求道者の持つ欲である。求道者の行動原理の活力となるものである。求道者は、この欲求を満たされることを最高の喜びとしている。理由は、「涅槃寂静」以降、求める欲が無くなるからである。そこで、最高で最後の境地を得る事で、求道者の欲を求める輪廻は消滅する。
苦を滅するという行為の、最高で最後の欲の対象が、つまり、最高で最後の喜びの対象が、「涅槃寂静」という境地なのである。
仏教的表現を借りると、「求道者にとって、『涅槃寂静』は、喜びであって喜びではない。」という事になるだろう。 (喜び=欲が満たされる事:という事を前提とする。)
という事で、「苦を滅し喜びを得る事」とは、仏教を志す者にとって、「涅槃寂静」への道を進む事になるのである。