解脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本教義 |
---|
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
|
部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
|
ウィキポータル |
ヒンドゥー教 |
基 本 教 義 |
輪廻、解脱、カースト |
神 々 |
ブラフマー、シヴァ |
ヴィシュヌ (クリシュナ) |
聖 典 |
ヴェーダ |
マハーバーラタ (バガヴァッド・ギーター) |
ウパニシャッド |
ラーマーヤナ |
人 物 |
シャンカラ、グル |
修 行 法 |
ヨーガ |
地 域 |
インド、ネパール |
バリ島 |
解脱(げだつ、vimukti, विमुक्ति、vimokSa, विमोक्ष)とは、一般的・仏教的な意味においては、誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱することであるが、ヒンドゥー教において用いられている究極的な意味合いにおいては、三昧(サマーディ)に入定し、輪廻転生の迷いの境界から脱することである。
目次 |
[編集] 「解脱」という語の意味と用法
サンスクリットの「ヴィムクティ」も「ヴィモークシャ」も、共に「ムッチュ」(muc, मुच्)を語根とする。これは「開放する」「放棄する」などの意味である。「ヴィムクティ」は毘木底と音写され、「ヴィモークシャ」は毘木叉と音写される。両者とも、全ての束縛から離れることであり、繋縛を離れて自在を得るという意味である。その意味で、古来「自在」と解釈されてきた「解脱というは、作用自在を謂う」(華厳大疏)。それは、外からの束縛の解放や自由より、内から自らを解放することや自由を獲得することを重要視する。
この「解脱」という言葉は、けっして仏教のみの術語ではなく、涅槃と共に、古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示す言葉として用いられた。
[編集] 仏教における解脱
よく解脱するというと、超能力を得る神秘体験をすると言われるが、仏教においてはそれらを解脱とは呼ばないようである。解脱とはこの世の世俗的な束縛からの解放であり、自由な境地を獲得したことである。つまり、「私は○○だ、私はこれほどの事を為したから、あのような結果があって当然だ、こうあるべきだ・・・・・・」等々の世俗に纏わる囚われからの解放を意味する。従って目の前に起こった出来事が、どんなに自分にとって不都合であろうと、甘んじて受け入れるという、そうした精神を持てることが解脱という。
仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)倶解脱(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていること、倶解脱とは慧の障りを離れるだけでなく「定」の障りをも脱していることである。
また、心解脱と慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明を離れていることをいうのである。
あるいは心解脱、身解脱といい、精神的には既に解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛を持っている場合、例えば釈尊の成道後の伝道生活の如きを心解脱、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱ということもある。
自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難しい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。
[編集] 諸宗教・宗派間の解釈の違い
インド一般の教え(仏教以外)では、輪廻からの離脱であるから、むしろ空相的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派仏教では無余涅槃を究極の目的とするから、身心都滅(しんしんとめつ)にして初めて解脱であるから、空相的な意味が強い。しかし、後の大乗では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にも囚われないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、実相的な意味あいである。
[編集] 解脱の名を有するもの
- 京都南部・笠置寺の貞慶(じょうけい)のことを、解脱上人という。法相宗の学僧で、興福寺の覚慧に師事して、法相と律を究め、法相教学の復興に努め法相再興の1人。法然の専修念仏に対して、「興福寺奏状」を著して念仏停止を訴えた。主な著作に、『唯識同学鈔』『愚迷発心集』などがある。