国定忠治
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国定 忠治(忠次とも。くにさだ ちゅうじ、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は江戸時代後期の侠客。
上野国左位郡国定村(後の群馬県伊勢崎市国定町)の生まれで、本名は長岡 忠次郎。農家に生まれ、博徒となって上州から信州一帯で活動。赤城山南麓を「盗区」として実質支配。対立する博徒の島村伊三郎や玉村の主馬、関東取締出役道案内(目明し)の三室勘助などを殺害。信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破った。 三室勘助殺害により、忠治一家は関東取締出役から一斉手配を受け、一家の幹部の多くは逮捕され、忠治は会津方面へ逃亡、4年後上州に舞い戻ったが中風を煩い、逮捕される。 逮捕後は幕府の取調べを受け、碓氷関所(群馬県安中市 - 長野県北佐久郡軽井沢町)を破った事により磔に処された。享年41。
天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色され講談や映画の題材とされる。
群馬県伊勢崎市国定町の養寿寺に墓がある。ギャンブル産業の盛んな群馬県において、「ご利益がある」と墓石を削り取って持ち帰る人が多かった。現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手になるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。
逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと堂山は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が堂山と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」とセリフを残し去った。呆気にとられた堂山だが、ずっと後まで この忠治の度胸の良さと男振りを褒め称えたという。