清水次郎長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
現在、この項目の一部の版または全体について、削除の手続きに従って、削除が提案されています。
この項目の執筆者の方々へ: まだ削除は行われていません。削除に対する議論に参加し、削除の方針に該当するかをどうか検討してください。
この項目は著作権侵害が指摘され、現在審議中です。
審議の結果、該当する投稿以降の版全てもしくはこの項目自体が、履歴も含めて削除される可能性があります。この版の編集や引用はしないで下さい。著作権上問題のない自分の投稿内容が削除される可能性のある方は、早めに控えを取っておいて下さい。(→詳しくはこちらの解説をお読み下さい。)
該当する投稿をされた方へ: ウィキペディアでは、著作権上問題のない投稿のみを受け付けることになっています。他人の著作物を使うときをお読み頂いた上で、審議にご協力をお願いします。
審議が終わるまで、このお知らせを除去しないでください。
清水 次郎長(しみずの じろちょう、本名:山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)、1820年2月14日(文政3年1月1日) - 1893年(明治26年)6月12日)は、幕末、明治の侠客。
目次 |
[編集] 博徒・次郎長の誕生
1820年(文政3年)、駿河国有渡郡清水湊(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・三右衛門の三男に生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからも呼称されることになった。
1843年(天保14年)、甲田屋の主人となっていた次郎長は人を斬り清水を出奔、無宿渡世の門をくぐった。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治の初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい。
[編集] 幕末における次郎長
1868年(慶応4年)3月、東征府判事の伏谷如水から街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。
同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、暴風雨により房州沖で破船し修理のため清水湊に停泊した咸臨丸が新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した際には、駿河湾に放置されていた遺体を小船を出して収容し向島の砂浜に埋葬した。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡、榎本と交際を持ったとされる。
[編集] 明治における次郎長
博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためにはお茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。
ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。
1893年(明治26年)、風邪をこじらせ74歳で死去。
[編集] 村本喜代作の評価
駿州政財界の御意見番として表裏の歴史を判りやすく筆にした村本喜代作(元県議会議長。子母澤 寛も駿河の歴史を村本より教授される)は1980年(昭和55年)、静岡の日赤病院に入院中に作家の藤田五郎と面談した際に「安東文吉(駿河の大親分)は弟の辰五郎と浪人小泉が参謀にいなかったら大親分になれなかっただろう。次郎長は山岡鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろう」という言葉を残している。
[編集] 清水一家六代目継承問題
徳間書店より発行されたアサヒ芸能(2007年2月15日号)によると、1966年に清水次郎長の五代目の「正統清水一家」が解散後、途絶えていた名跡を山口組系二代目美尾組・高木康男組長が「六代目」として襲名するとする記事が掲載された。(美尾尚利・初代美尾組組長が五代目の元若衆である) これにより、静岡市暴力追放推進協議会は、清水の観光客減・イメージ悪化につながることから清水警察署に継承阻止の要望書を送った。だが、2007年2月28日にはその美尾組が六代目清水次郎長を襲名したと毎日新聞などに報じられ、観光への被害を心配し静岡市清水区の観光協会などは清水次郎長グッズなどを自主的に撤去した。