碓氷峠
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碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠である。標高は約960m。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。
信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。碓氷峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
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[編集] 地理
群馬県側の麓、安中市松井田町横川の標高は387m。長野県側の軽井沢は標高939m。直線距離で約10kmの間の標高差は500m以上に達する急峻な片勾配の峠越えで、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、数多くの困難を抱えた。
[編集] 歴史
[編集] 古代・中世
古来より、坂東と信濃をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。古くは碓氷坂(うすひのさか)といい、宇須比坂、碓日坂などとも表記された。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘姫をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。
7世紀後葉から8世紀前葉にかけて(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世中山道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化したため、これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため、昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。
古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
[編集] 近世
江戸時代には、中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国、さらには北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。
ただし、古道はその後も活用されており、たとえば鰐坂峠ルートは難所の碓氷峠を避けることができることから「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この姫街道は、本庄で中仙道本道から分かれ、藤岡・富岡・下仁田を経由して、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州にはいり、追分宿のあたりで本道と合流するルートであった。しかしこちらも難所であることにさほど差はなかったという。姫街道にも、西牧関所が置かれていた。
碓氷峠は、中仙道有数の難所であったため、幕末の1861年に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。
[編集] 明治時代以降
時代が明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。この新道は、坂本宿から碓氷湖付近まではおおむね和宮道を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになったエリアは中仙道旧道に沿った場所であり、軽井沢駅があるエリアは明治時代になってから開発された新道沿いにあたる。
さらにその後、1971年に国道18号のバイパスとして作られた有料道路の碓氷バイパス(入山峠)が開通し(2001年11月11日より無料化)、1993年の上信越自動車道が開通したことから、明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。
[編集] 鉄道
[編集] アプト式鉄道
鉄道においても、この難所を越えることは早くから重要視され、1893年に官営鉄道中山道線として横川~軽井沢間が開通した(横川駅~軽井沢駅間にあることから、碓氷峠の別名として「横軽(よこかる)」と呼ばれることがある)。これに先立って、1888年~1893年には碓氷馬車鉄道という馬車鉄道も、同線の資材輸送のため国道18号上に敷設されていた事があった。
しかし、資材や人員の運搬の便を図るため中山道沿いに線路を敷設したことが逆に仇となり、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15=約3.8度)という急勾配が問題となった。急勾配を避けると相当の距離の迂回が必要で建設費がかかるため、この傾斜に真っ向から挑むことになったが、当時の通常の蒸気機関車では登坂が困難であったため、アプト式ラックレールが採用された。しかし、その後技術の進歩により、京阪電鉄京津線や東急電鉄玉川線は碓氷峠と同じ66.7‰の勾配をラックレールなしで越え、箱根登山鉄道もラックレールなしで80‰の勾配を登坂している。
トンネルの連続による煙の問題から日本で最初の幹線電化が行われた(1912年)のもこの区間であるが、電化によって若干の輸送力増強はなされたものの、輸送の隘路であったことは相変わらずで、名だたる鉄道の難所として「西の碓氷峠、東の板谷峠」と並び称された。1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、以下のように歌われている。
- 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
- 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
更に『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。
- 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
[編集] 粘着運転化
太平洋戦争後は、輸送の隘路の解消のため、再度急勾配を避け最急勾配を22.5‰とする迂回ルートも検討されたが、結局、ルートをあまり変更せず、最大66.7‰の急勾配は存置したまま、一般的な車輪のみによる粘着運転で登坂することになり、1963年に新線が開通してアプト式は廃止された。それでも、登坂力、ブレーキ力を補うため、この区間のみ補助機関車(EF63形)の連結が必要とされるうえ、連結両数が最大8両に制限されたり、通過車両には車体の挫屈を防止するための台枠補強や連結器の強化を要する(通称「横軽対策」。対策施行車は、識別のため車号の頭に「●」が付された。)など、峠越えにはやはり特別な取り扱いを要した。
1968年以降、EF63形との協調運転により12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式末尾番号が9)が投入され、輸送力の増強に寄与したが、抜本的な輸送改善には至らなかった。1985年(昭和60年)頃には、余剰のサロ183形を改造した碓氷峠を自力登坂可能な電車も計画されたが、北陸新幹線(長野新幹線)建設決定にともない、計画は放棄された。
[編集] 北陸新幹線開業に伴う廃止
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川~軽井沢間)は、県境を越えることもあってローカルの旅客流動が少なく、長距離旅客が新幹線に移動するとこの区間を維持できるだけの旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター等に転換されることなく廃止された。
この廃止の方針について、安中市の新島学園高等学校に通学する長野県の生徒の父兄を中心に廃止許可取消の行政訴訟を前橋地方裁判所に起こしたが、行政不服審査法による手続きを行わなかったため、内容に踏み込むことなく「原告不適格」の判決が下され、東京高裁の控訴審、最高裁の上告審も前橋地裁の決定を支持したため、横軽廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。
[編集] アプト式時代に使用された機関車
- 国鉄3900形蒸気機関車
- 国鉄3920形蒸気機関車
- 国鉄3950形蒸気機関車
- 国鉄3980形蒸気機関車
- 国鉄EC40形電気機関車
- 国鉄ED40形電気機関車
- 国鉄ED41形電気機関車
- 国鉄ED42形電気機関車