土橋亭里う馬 (9代目)
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9代目土橋亭 里う馬(どきょうてい りゅうば、1892年(明治25年)3月3日 - 1968年(昭和43年)12月5日)は東京の落語家。本名:黒柳吉之助。
生家は東京で一二を争う筋屋(煙管に細工をする)。1912年4代目橘家圓喬に入門。喬松(東喬とも)と名乗るが、程なく師匠が亡くなったため、活動写真の弁士になる。浅草で黒沢という弁士に入門するがこれも長続きせず、4代目橘家圓蔵門となり喜久蔵、稲蔵で二つ目。その後6代目金原亭馬生(のちの4代目古今亭志ん生)門で金原亭馬好と改名。だが、師の妹と関係してしまい北海道に逃げ幇間に転向。(1921年以降に幇間になる説あり)以後1928年頃まで、落語家に復帰はするもののあちこちと師匠を変えたりなど尻が定まらない。以下を表にすると。
- 1919年 - 3月に8代目入船亭扇橋門で、鯉之助を名乗る。
- 1921年 - 11月に浮世戸平の名で真打昇進。
- 1924年頃 - 8代目桂文治門に移り、桂文兎を名乗る。
- 1928年 - 3月、桂文都に改名。(大阪の文都と関連は不明)
文都時代がもっとも安定していたと言われている。戦後芸術協会に加入、桂小文治の門になり1946年桂文一となる。5代目古今亭今輔の斡旋で、引退していた8代目土橋亭里う馬(本名:岡田左太郎)から里う馬の名跡を譲られ、1948年9代目土橋亭里う馬を襲名する。
以後「毒演会」と自ら名付けた独演会を定期的に持ち、当時の落語界と一線を劃した。博学多彩で話術に秀で、孤高の噺家として熱狂的なファンを持っていた。