下野宇都宮氏
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下野宇都宮(しもつけうつのみや)氏は藤原北家道兼流の名族・宇都宮氏の嫡流である。代々下野国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身。奥州を見据える要衝の地・宇都宮及び日光の地を治める社務職(宇都宮検校等)を務め、京都との繋がりが強かった。
下野国は宇都宮氏の発祥地であり、当地の宇都宮氏が嫡流。庶流として豊前宇都宮氏(城井氏)があり、さらに伊予宇都宮氏、筑後宇都宮氏(蒲池氏)などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野宇都宮氏と呼ばれる。
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[編集] 平安時代
宇都宮氏(下野藤原氏)は、藤原宗円を祖とし、中原氏あるいは下毛野氏の流れを汲むといわれる。宇都宮氏は、藤原宗円が蝦夷征伐の功績により歴代宇都宮氏の拠点となった下野一ノ宮二荒山神社(別称:宇都宮、延喜式神名帳の下野一宮名神大社)の座主となったことに始まる。宇都宮氏は22代・500年に亘って紀清両党を率い、下野国さらには日本国土の治安維持に努めた。
[編集] 鎌倉時代
藤原宗円の孫で、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された宇都宮朝綱が初めて宇都宮氏を名のり、宇都宮大明神座主および日光山別当職を兼ねる宇都宮検校職を司った。宇都宮氏は鎌倉幕府において政所を務める有力御家人の一つとなる。5代当主宇都宮頼綱は武人であり、承久の乱での宇都宮氏の活躍により伊予国守護を拝命した。その一方で藤原定家と親交厚く、京都歌壇・鎌倉歌壇に比肩する宇都宮歌壇の礎を築いた。出家隠居後は宇都宮蓮生を名乗り、京都小倉山に別荘を所有しその襖色紙に定家が選じた首歌を配すと、これが後の小倉百人一首として受け継がれ、今でも宇都宮では正月になると「かるた取り大会」が催され郷土芸能として根付いている。
鎌倉時代中期、8代当主宇都宮貞綱は元寇に際して、鎌倉幕府の討伐軍総大将として九州に赴き勝利に貢献した。貞綱は亡母の13回忌に全国的に他に例を見ない巨大鉄製塔婆を菩提寺であった東勝寺(宇都宮氏改易と伴に廃寺)に奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。
鎌倉時代後期、河内国で楠木正成らが挙兵すると、第9代宇都宮公綱は討伐軍に参加したが幕府が滅亡したため解散され、後醍醐天皇の建武の新政がはじまると雑訴決断所を務めた。
[編集] 南北朝時代~室町時代
足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も公綱は南朝方として動いたが、子の10代宇都宮氏綱は足利氏に属した。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏方に就いた氏綱が武功を上げ、中央政府から下野国・上野国・越後国守護職を授かった(1352年)が、その後鎌倉公方・足利基氏によって関東管領・上杉憲顕がその職に任じられ失職した(1363年)。11代当主宇都宮基綱は下野国守護の小山義政の攻略を受けて戦死したが、小山義政は逆に鎌倉公方足利氏満・関東管領上杉憲方率いる鎌倉軍によって討伐され、12代宇都宮満綱は無事領有権を保持した。
その後、足利持氏が鎌倉公方職に就いたが、持氏は関東管領・上杉氏憲と不仲となり、氏憲の領国内で鎌倉公方に反旗を翻す国人一揆が発生し、持氏はこれら国人を一掃して勢力を誇示した(応永23年1416年上杉禅秀の乱)。持氏の勢力拡大に危機感を持った室町幕府・足利義持は関東の有力武家をして京都扶持衆を構成し持氏を牽制した。禅秀の乱の恩賞として持氏から上総国守護を授かった13代当主宇都宮持綱は、室町幕府の命とはいえ京都扶持衆を務めたため持氏の反感を買うこととなり、同じく扶持衆の小栗満重とともに持氏によって追討されてしまった。この後、持氏は関東管領で下野国守護の上杉憲実と抗争を起こし、逆に憲実によって自害に追い込まれた(永享10年1440年永享の乱)。
持氏の遺児らは結城氏朝に匿われ結城城で挙兵したが、幕府方の上杉軍によって鎮められた(永享12年1442年結城合戦)。また、やはり持氏の遺児で幕府の意向を受け鎌倉公方を再興した足利成氏は、享徳3年(1454年)、時の関東管領・上杉憲忠を殺害し、終わり無き享徳の乱が勃発した。成氏は幕府軍の追討を受けて鎌倉を失い、古河に移って古河公方と呼ばれるようになった。14代当主宇都宮等綱はこの間一貫して幕府・管領上杉氏に追従したため、成氏の命を受けた那須資持の攻撃を受け、出家して宇都宮を去り奥州白河で病死した。15代当主宇都宮明綱・16代当主宇都宮正綱は成氏に従った。
[編集] 戦国時代
代々続いた古河公方との対立を克服し、17代当主宇都宮成綱は常陸の佐竹氏や那須氏の攻勢を巧みにかわし、古河公方家の内紛に介入するなど勢力を拡大し、宇都宮氏を戦国大名へと成長させた。しかし周辺豪族との競合・内紛は収まらず、18代当主宇都宮忠綱は家中の競合に負け、逃れた都賀の地で病没した。19代当主宇都宮興綱は忠綱から当主の地位を奪ったが、やはり内紛が起きて殺害された。
室町幕府足利氏の弱体化とともに後北条氏が南関東に台頭すると、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともにこれを北から牽制する一大勢力となった。20代当主宇都宮尚綱は佐竹義篤・那須政資・小田政治と手を結び、見かけ上、北条氏に組した小山高朝・結城政勝と対立した。尚綱の死後、幼少にして当主の座に就いた21代当主宇都宮広綱は病弱だったが同族で配下の芳賀高定に支えられ支配権を維持した。22代当主宇都宮国綱は豊臣秀吉や長尾景虎に北条討伐を求め、1590年の秀吉軍による小田原攻めでは秀吉の軍陣に参じた。秀吉軍は北条軍を破り、国綱はその領土を認められ秀吉から羽柴姓を受けた。その後秀吉は宇都宮城に入場し、東国の支配体制を決定した(宇都宮仕置)。この折には東国の名だたる戦国大名が宇都宮に参じたという。
秀吉は1592年、朝鮮に出兵するが、国綱もこれに従い参陣する。帰還後は豊臣姓を賜り爵位従五位下に任ぜられたが、1597年、突然改易処分を受け備前国へ配流された。改易の理由は石高詐称や中央における石田三成と浅野長政の確執に巻き込まれた等諸説あるが、定かではない。
[編集] 一族
算用数字は宇都宮朝綱を初代とした場合の数で、漢数字は藤原宗円を初代とした場合の数
藤原氏道兼流
下野宇都宮氏
- 宇都宮朝綱【三】
- 宇都宮成綱【四】
- 宇都宮頼綱【五】
- 宇都宮泰綱【六】
- 宇都宮景綱【七】
- 宇都宮貞綱【八】
- 宇都宮公綱【九】
- 宇都宮氏綱【十】
- 宇都宮基綱【十一】
- 宇都宮満綱【十二】
- 宇都宮持綱【十三】(武茂氏より入嗣、京都扶持衆)
- 宇都宮等綱【十四】
- 宇都宮明綱【十五】(当主に含めない場合もある)
- 宇都宮正綱【十六】(芳賀氏より入嗣)
- 宇都宮成綱【十七】
- 宇都宮忠綱【十八】
- 宇都宮興綱【十九】(正綱子、初め芳賀氏養子)
- 宇都宮尚綱【二十】
- 宇都宮広綱【二十一】
- 宇都宮国綱【二十二】
- 宇都宮義綱【二十三】(水戸藩家臣)
他家への養子
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。細線は養子。
(下野宇都宮氏)
藤原宗円 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 八田宗綱 中原宗房 ┣━━━━━┳━━━━━┓ ┃ 宇都宮朝綱 八田知家 女(小山政光室) 宇都宮信房(豊前宇都宮氏) ┣━━━━━┓ ┃ ┃ 成綱 那須頼資 結城朝光 景房 ┣━━━━━┓ ┃ 頼綱 塩谷朝業 信景 ┣━━━━━┓ ┃ 泰綱 横田頼業 道房 ┃ ┃ 景綱 頼房 ┣━━━━━┓ │ 貞綱 泰宗 冬綱(城井氏) ┃ ┣━━━━━┓ 公綱 武茂時綱 貞泰 ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━┓ 氏綱 武茂氏泰 貞宗(伊予宇都宮氏) 貞久(筑後宇都宮氏) ┃ ┃ │ ┃ 基綱 武茂綱家 豊房 懐久 ┃ ┃ ┃ ┃ 満綱 持綱 宗泰 久憲(蒲池氏) | 持綱 ┣━━━━━┓ 等綱 女(芳賀成高室) ┃ ┃ 明綱 正綱 | 正綱 ┣━━━┳━━━┓ 興綱 武茂兼綱 成綱 ┃ ┃ 尚綱 忠綱 ┃ 広綱 ┣━━━┳━━━┓ 国綱 結城朝勝 芳賀高武
[編集] 一門、関連氏族、家臣
壬生氏
芳賀氏
多功氏
笠間氏
皆川氏
- 皆川成勝
- 皆川俊宗
- 皆川広照
- 芳賀高定
- 益子家宗
塩原氏
- 塩谷孝綱
- 塩谷義孝
- 塩谷孝信
- 武茂綱家
- 武茂兼綱
[編集] 江戸時代以降
宇都宮国綱はお家取り潰し後、常陸の佐竹氏の与力となった。その後、佐竹氏の秋田への移封後に御家再興を図るも江戸の石浜で病死する。子孫は水戸藩に仕えた。
[編集] 下毛野氏
下毛野氏は古墳時代以来の下毛野国(現在の栃木県。下毛野国と上毛野国に分けられる前は毛野国。)の豪族で、東国の開祖・豊城入彦命の後裔といわれる。また、毛野国はヤマト王権において吉備国や筑紫国などと並び中央政府での強大な発言力を有していたと言われている。
一族である下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに大宝律令の編纂に関わり、また奈良の東大寺(中央戒壇)、筑紫の観世音寺(西戒壇)とともに三戒壇に指定された下野薬師寺(東戒壇)を氏寺として建立したと伝えられる。
[編集] 歴史資料
- 宇都宮興廃記
- 那須記