堀田正衡
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堀田 正衡(ほった まさひら、寛政7年(1795年) - 安政元年10月12日(1854年12月1日))は、下野佐野藩の藩主。堀田正敦の長男。母は堀田正富の娘。正室は堀親寚の養女(堀直起の娘)。子に堀田正修、土井利祐、北条氏恭。
官位は従五位下、摂津守。天保3年(1832年)、父・正敦が亡くなったため家督を継承。幕府では奏者番、そして若年寄を天保7年(1836年)から天保14年(1843年)まで努めた。安政元年(1854年)に60歳で死去。長男の正修は既に没していたため、正修の子・堀田正頌が跡を継いだ。
学問熱心な人物で、特に貝の研究に熱心で、「観文介譜」を著している。絵画にも秀でた才能を残すなど、文学的に優れた人物であった。正衡の家臣・高橋源十郎の子・高橋由一は日本で最初の洋画家となっているが、これは正衡の影響が大きいとも言われている。
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