堀田正敦
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堀田 正敦(ほった まさあつ、宝暦5年(1755年) - 天保3年6月16日(1832年7月13日))は、近江堅田藩、下野佐野藩の藩主および江戸幕府の若年寄。
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[編集] 経歴
陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。正室は堀田正富の娘。子に堀田正衡、田村宗顕、毛利元世、大関増業室、土井利以室、牧野以成室。官位は従五位下、摂津守。仙台藩主・伊達斉村が死去したとき、後を継いだ伊達周宗の後見役となり、仙台藩の藩政を担っている。
和漢の学識に富み、「寛政重修諸家譜」編纂の総裁を務めている。また蘭学者を保護するなど学者を厚遇し、自らも鳥類図鑑「禽譜」と解説書「観文禽譜」(後述)を編纂するとともに、「観文獣譜」(東京国立博物館所蔵)、「観文介譜」(貝の博物書、写本を東洋文庫が所蔵)も執筆している。
天保 3年(1832年)没。長男・正衡が家督を継ぐ。
[編集] 略年譜
- 第六世伊達宗村の八男・庶子として生まれる(伊達家資料より)。
- 中村に改姓、名を村由とする(仙台叢書より)。
寛政 6年(1794年)
- 「観文禽譜」に尾藤二洲が序を寄せる。
寛政11年(1799年)
- 「寛政重修諸家譜」の編纂に着手。
- 「観心院六十賀和歌」(土井利徳、田村村資らと共著)完成。
文化 2年(1805年)
- 「萩か花すり」完成。
文化 3年(1806年)
- 三千石加封され、堅田藩1万3000石となる。
文化 4年(1807年)
文化 5年(1808年)
- 視察記録「松前紀行(蝦夷紀行)」完成。
文政12年(1829年)
- 3000石加封され、佐野藩1万6000石となる。
天保 2年(1831年)
- 仙台藩の儒官・桜田欽斎、河野杏庵により「観文禽譜」が訂補され、完成。
天保 3年(1832年) 1月29日
同年 6月 7日
なお、堀田正敦が携わった「観文獣譜」、「観文介譜」の詳しい成立時期は不明である。
[編集] 禽譜・観文禽譜
堀田正敦は江戸幕府の若年寄を務めるとともに、「禽譜」(きんぷ、堀田禽譜、写本を宮城県図書館などが所蔵)を編纂し、江戸時代の鳥類学者としての実績も遺している。 この堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書「観文禽譜」(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)の解説に対応する鳥類の図が収録されており、観文禽譜から抜粋された解説が付けられていることから、観文禽譜の図譜部であるとも考えられている。
観文禽譜は寛政 6年(1794年)に一旦完成を見たものの、その後も追補され、現在に伝わる姿になったのは天保 2年(1831年)のことと考えられている。
本書では、日本で見られる鳥類(野鳥および家禽種)を以下のように分類し、各種について詳説している。
上記のほか、「異邦禽小鳥」の章を設けて国外の種を紹介した。
正敦は、あくまで外観や観察から得られる特徴を収録するとともに人間とのかかわりを重視しており、和名や生息地、外観などの基礎的情報に加え、既存文献での記述状況やその分析、和名を詠んだ和歌の引用、食用・薬効などにもついても記されている。 西欧で主流であった身体の部位の分析や分類、解剖学的見地に立つ鳥類学とは一線を画するものだが、しかし近現代にも通じる種の分類と解説がされるとともに生態的特徴も詳しく記されており、各種の和名の由来や日本人の生活とのかかわりを知る史料としての意味を併せ持つ特徴がある。
また、正敦は当時幕府の支配が及んでいなかった蝦夷地(現在の北海道)にも足を運ぶとともに蘭学者などにも通じており、たとえばロシアからオランダ経由で日本に伝わったと考えられているエトピリカ(現在は北海道での生息域は限られており、近隣では主に千島列島などに生息する。本書内では「エトビリカ」と表記)の図や生態を収録したり、当時からタンチョウの生息域が北海道内などに限られつつあったことを示唆する記述を遺している。
現在の研究成果や分類と比べれば細かな相違や過不足こそあるものの、400以上の種の外観図や生態的な記述が網羅されており、中には現在では都市開発による人為的破壊などによる生息地の変化や絶滅などによって知ることのできない種も収録されていることから、当時の鳥類の生態などを知る上で重要な史料になっているとともに、西欧でも研究が始まって間もない18世紀にこれだけの研究成果を遺している江戸時代の学問水準の高さを今に伝えている。
[編集] 参考文献
- 江戸鳥類大図鑑 よみがえる江戸鳥学の精華、堀田正敦著・鈴木道男編著、平凡社、ISBN 4-582-51506-1。
- 「観文禽譜」(解説部)、「堀田禽譜」(図譜部)から 734項目 438種の記述および図を再構成し(現存しない図は他の資料からも引用している)、解説部原文の現代語訳と編著者による解説・考察、現和名・学名とその索引を設けて再編纂された図鑑。また原著者である堀田正敦の経歴等についても詳説している。
[編集] 外部リンク
- 同時期に編纂された水禽譜(すいきんふ、編者不詳)の中にも堀田禽譜と同様の図がいくつか収録されており、相互に参照されていたと考えられている。なお上記参考文献でも堀田禽譜に現存しない一部の図画をここから引用している。
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