大久保教寛
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大久保 教寛(おおくぼ のりひろ)は、江戸時代の旗本。のちに駿河松長藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 明暦3年(1657年) | |||
死没 | 元文2年12月17日(1738年2月5日) | |||
改名 | 唐之助(幼名) | |||
諡号 | 休穏 | |||
戒名 | 武林崇勇虎山院 | |||
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 | |||
官位 | 従五位下、長門守 | |||
幕府 | 江戸幕府小姓組番頭→書院番頭→ 側用人→若年寄 |
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藩 | 駿河松長藩主 | |||
氏族 | 大久保氏 | |||
父母 | 父:大久保忠朝、母:村越氏 | |||
兄弟 | 大久保忠増、大久保教寛 | |||
妻 | 正室:米津政武の娘 | |||
子 | 教端、教平、娘(伊東長丘室)、 娘(水野忠英室) |
明暦3年(1657年)、相模小田原藩主・大久保忠朝の次男として生まれる。元禄5年(1692年)4月14日、小姓組番頭に任じられて2000俵取りとなる。同年12月18日、従五位下、長門守に叙任される。元禄10年(1697年)に安房長狭郡に所領を与えられた。元禄11年(1698年)に兄の大久保忠増が本家小田原藩の家督を継ぐと、兄から駿河・相模国内で6000石を与えられた。元禄12年(1699年)1月11日に書院番頭に任じられ、閏9月28日には側用人に任じられる。宝永3年(1706年)10月15日には西の丸若年寄に任じられ、駿河富士郡などに5000石加増の1万1000石を領したため、大名となり、駿河松長藩主となった。
宝永6年(1709年)1月10日、若年寄に任じられる。享保3年(1718年)3月3日、さらに相模大住郡などにおいて5000石を加増され、1万6000石を領する大名となった。享保15年(1730年)11月27日、家督を長男の大久保教端に譲って隠居する。
元文2年(1737年)12月17日に死去。享年81。
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