大橋俊雄
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大橋 俊雄(おおはし しゅんのう、1925年-2001年12月26日)は、仏教史学者、歴史学者。初名は「登志夫」、のち「俊雄」(としお→しゅんのう)。「しゅんゆう」ではない。
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[編集] 略歴
1925年、現在の愛知県一宮市に生まれる。1948年3月、大正大学仏教学部仏教学科卒。横浜市立高校や時宗の宗門校藤嶺学園藤沢高等学校で教鞭を執る。元々は真宗大谷派の門徒の家に生まれたが、浄土宗にて得度・受戒し、横浜市戸塚区(現:泉区)岡津町の西林寺に入り、住持職を務める。このほか大正大学非常勤講師、日本文化研究所講師など。立正大学より一遍を論題として文学博士号を受ける(学位請求論文は未刊行)。晩年、浄土宗本山蓮華寺貫主となる。2001年、肺がんのため横浜の自宅にて死去。76歳。
[編集] 時宗研究者として
大学在学中、のちに遊行72代・藤沢55世(時宗法主)他阿一心となる寺沼琢明の授業を受け、時宗研究に目覚める(このとき受講を薦めた時宗寺院の子弟は、のちに中学校教員となり野球部顧問として長嶋茂雄を育てる)。戦前から着目していた赤松俊秀とともに、戦後の学界で時宗研究の先鞭をつけたのは大橋といえる。笠原一男と親しくし、日本史における時宗研究の意義を広めた。時宗文化研究所研究員(所員は大橋のみ)として、金井清光発行の『時衆研究』編集を55号より引き受け、100号で終刊を迎えた。浄土宗研究者、郷土史家としても著作多数。
[編集] 評価
- 時宗は中世には時衆であって宗旨ではなかったが、大橋も例外なく宗派史観から脱することはできなかった。また、多数の業績を遺しているが、古いタイプの研究者らしく典拠をしばしば省くことがあり、孫引きが少なくなかったようである。ただパイオニアとしての功績はそれらを補って余りある。概説書はわかりやすく、時宗研究を志す者には必読となっている。
- 子女を二人同時に亡くすという災難に見舞われながら、『時衆研究』を遅滞なく刊行したという。
- 時宗宗門からは、金井清光とともに、他阿一心法主より一度表彰されただけであった。また所属する浄土宗からも冷遇された。そのため、後年は時宗および浄土宗の異流とされた一向派研究に力を注いだ。一向派寺院の親睦団体である八葉会教学顧問となり、史料集を多数執筆する。そして一向派の血脈を相承し、本寺であった蓮華寺の貫主に推戴された。
[編集] 人物伝
- 大橋俊雄「時衆研究を志して」(『時衆文化』5、2002年4月。自叙伝・遺稿)
- 金井清光「大橋俊雄氏の人と学問」(同上)
- 朝日新聞2002年1月15日訃報記事。
- 『偲び草』(西林寺、2002年2月。追悼遺稿集・略伝)
[編集] 主な著作
- 『法然 一遍』日本思想大系10(岩波書店、1971年)
- 『時宗の成立と展開』日本宗教史研究叢書(吉川弘文館、1973年)
- 『踊り念仏』大蔵選書(大蔵出版、1974年)
- 『一遍と時宗教団』教育社歴史新書(教育社、1978年)
- 『一遍』人物叢書183(吉川弘文館、1983年)
- 『中世仏教の基礎知識』東京美術選書(東京美術、1984年)
- 『一遍上人語録』岩波文庫青321-1(岩波書店、1985年)
- 『近代浄土宗百年史年表』(東洋文化出版、1987年)
- 『一遍聖絵』岩波文庫(岩波書店、2000年)
- 『一遍聖』講談社学術文庫(講談社、2001年)
- 『法然全集』1-3(春秋社、2001年)
- 『法然上人絵伝(上・下)』岩波文庫(岩波書店、2002年)