奥平忠隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥平 忠隆(おくだいら ただたか、1608年(慶長13年) - 1632年2月24日(寛永9年1月5日))は、美濃加納藩の第3代藩主。父は第2代藩主・奥平忠政。母は里見義頼の娘。正室は酒井家次の娘。官位は従五位下。飛騨守。
松平忠隆とも言われる。1614年、父が死去したために後を継いだが、幼年のために祖父の奥平信昌が政務を代行した。しかし信昌も1615年に死去したため、祖母の亀姫の補佐を受けた。だが、その祖母も1625年に死去。忠隆が喪主を務める事となったが、まだ若干18歳。葬儀の差配は、叔父・松平忠明が取り仕切っていたと思われる。
1632年正月5日、25歳の若さで死去。実は忠隆の死後、彼の息子が生まれたのであるが、生来から病弱であったために幕府はふさわしくないとして家督相続を認めず、ここに加納藩の奥平氏は改易されてしまった。なお、その遺児は1635年7月に4歳で死んでいる。
|
|
|