奥平信昌
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奥平 信昌(おくだいら のぶまさ、弘治元年(1555年) - 慶長20年3月14日(1615年4月11日))は戦国時代、江戸時代の武将。貞昌。
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[編集] 出生
三河国作手の有力国人・奥平貞能の嫡男として生まれる。母は牧野成種の娘。徳川家康の長女・亀姫を妻として娶ったことから、家康の娘婿として重用されるようになる。なお、亀姫との間には4男1女(家昌、家治、忠政、忠明ら)が生まれている。
[編集] 長篠の戦い
信昌はもとの名を貞昌という。奥平氏はもともと今川氏の家臣であったが、桶狭間の戦い後に今川氏が没落した後は武田信玄の家臣となっていた。しかし天正元年(1573年)8月、秘匿されていた信玄の病死を察知した父の貞能の決断によって武田氏を離反。武田氏の間隙を衝いて長篠城奪回に成功した徳川家康の家臣となる。なお、その際に武田方に人質としてとられていた許嫁などを誅殺されたという。家康は、長篠城を降ったばかりの貞昌に託し、武田軍の矢面に立たせている。そればかりか、武田軍を撃退できた場合には、自身の長女・亀姫を嫁に取らせるとの約定まで持ち出して、奥平氏のやる気を促している。
これに激怒した信玄の子・武田勝頼は天正3年(1575年)5月、奥平氏を討伐するために1万5,000を号する大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠もって徹底抗戦し、武田軍を大いに苦しめたという。この貞昌の善戦が、同月21日の設楽原決戦における織田・徳川連合軍の大勝利につながったとまで言われている。ちなみに貞昌は、このときの善戦ぶりを織田信長からも賞賛され、信長から『信』の字を拝領し、信昌と改めたのである。信長の直臣でもないのに、一字を拝領した者は信昌の他には、長宗我部信親ぐらいであろう。ただし信親の場合は、父・元親への外交的儀礼の意味合いを持たせて一字を贈与した信長なのであって、信親の人物まで認めていた訳ではなかったと考えられる。そういう意味合いからして、信長から人物を認められた信昌の貢献度は非常に高かった、と考えて良さそうである。
なお家康も、名刀・大般若長光を授けて信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉を掛け、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという特異な御墨付きまで与えた。
[編集] 家康に重用される
天正13年(1585年)徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔するという大事件が起こった。数正は徳川氏の宿老であるから、徳川軍の軍事機密を知り尽くしている。そのため、家康は急遽、徳川軍の軍制改革を迫られることとなり、かつて自分を完膚なきまでに叩き潰した武田信玄の軍制を新たに取り入れることにした。このとき、かつては武田氏の家臣でもあった信昌は、そのときの軍制改革において大いに貢献したという。
天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に三河軍団も関東に移転。翌月8月23日には、上野国甘楽郡の宮崎に3万石で封される事が決まった。本多忠勝、榊原康政、井伊直政らの10万石、11万石(直政のみ)を筆頭として、大久保忠隣の4.5万石に鳥居元忠が4万石。それらに続く6番目・酒井家次と並んだ3万石なのだから、厚遇の部類といえよう。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に間に合わなかった秀忠軍の一翼を担っていたため、最たる戦功は無し。だが戦後は、京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務めると、この時、京都潜伏中の敗将・安国寺恵瓊を捕縛している。恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗とは、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。ただし、一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原戦後に関する一連の功として、上野国小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増移封されている。慶長7年(1602年)、加納で隠居し、3男・奥平忠政に藩主の座を譲った。慶長19年(1614年)には、手許の3男ばかりか下野国宇都宮の長男・奥平家昌にまで先立たれ、大坂出兵どころではなかった。翌年3月に死去。 美濃国加納の盛徳寺(臨済宗妙心寺派)に葬られる。戒名、久昌院殿泰雲道安大居士位。
[編集] 関連項目
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