孫和
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孫和(そんか、224年 - 253年)は、中国三国時代の呉の皇族(廃太子・南陽王)。孫権の三男(次男とも)。母は王夫人(瑯邪)。字は子孝。子は孫皓・孫徳・孫謙・孫俊。
異母兄孫登が241年に夭逝すると、翌年孫権の後継者に指名されて皇太子となった。幼児の頃から資質に優れた人物で、学問や礼儀作法などいずれにおいても優秀であったと言われている。兄の孫登とも仲が良く、死の床についた孫登が父親である孫権に当てた手紙の中で孫和を推挙している。
逸話として、孫和が側室である鄧夫人に対し誤って酔った勢いで玉が顔にぶつかったことがあり、頬から出血が止まらなくなった。慌てて医者を呼び琥珀の粉末を使い頬の傷を治すことになったが、琥珀の粉末の量が多すぎて頬に赤いアザが残ることとなった。だが、この赤いアザが美しく孫和は以前よりも増して鄧夫人を溺愛することになり、他の側室もこぞって頬に赤い入れ墨を入れることとなった。これが一般に広まり、女性が化粧で顔を頬に赤く染めることとなった。
後継者に選ばれたものの、孫権の娘である異母姉全公主に讒言されて、太子を廃されたうえ、幽閉された。このとき、人望のあった孫和は朱拠や屈晃など多くの呉の重臣たちから赦免を願われたらしいが、老いて衰えた孫権は受け入れなかったと言う。父・孫権の死後、呉の実権を握った孫峻によって自殺に追い込まれた。演義においては、全公主の讒言を恨んで病にかかり、死去したことになっている。
後に子の孫皓が呉の第4代皇帝として即位すると、文皇帝と諡された。
孫皓は父親を大変敬愛していたようで皇帝になった時に父親を祀る祭りを立て続けに行い、近臣に「度重なる祀りは却って礼を損ないます」と止められるほどだった。また史官の韋昭に孫和の本紀を立てるよう命じたが、韋昭はそれを断った(孫和は皇帝ではないので本紀に入る資格はない)このことが韋昭誅殺の原因であったともいわれる。