朱拠
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朱拠(しゅきょ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。字は子範。同じく呉に仕えた朱桓の一族、朱異の従父に当たる。妻は孫権の娘の孫魯育。朱熊・朱損・朱夫人(孫休の皇后)の父、朱宣の祖父。
呉郡呉の人。呉の名将の一人だが、三国志演義には記述が無い。
性格は公平清廉で勇猛果敢、才知にも優れていたうえ、呂蒙や陸遜らなどより一世代若いということもあって、彼らからは将来の呉を支える武将と目されていた。若くして左将軍に出世し、孫権の娘の魯育を妻として娶ったが、朱拠は自分が孫権の娘婿になったからといって特別扱いされることを嫌い、贅沢はせずに質素を好み、奢ることも無かった。また、人物眼にも優れた才能を発揮し、孟仁など多くの有能な人物を孫権に推挙した。このような経緯から、陸遜からは自分の後を継いで呉の軍権を統率する人物と将来を嘱望された。
246年、驃騎将軍に昇進した。249年には丞相代行として祭祀を執り行った。
しかし、孫権が老いて衰え、さらに長男で皇太子であった孫登が早世すると、朱拠は呉の後継者争いに巻き込まれた。朱拠は皇太子に立てられていた孫和が幽閉されたことを知ると、自分の顔に泥を塗り、縄で自身の身体を縛ってまで抗議した。しかし、孫権は聞き入れず、逆に怒って朱拠を百叩きの刑に処したうえ、新都郡の丞に左遷して中央から遠ざけた。
そして朱拠は、任地に赴く途中で、気の変わった孫権の勅命により、自殺を命じられた。享年57。これには、反孫和派の中書令の孫弘が孫権の命令と偽って、自殺に追い込んだのだとも言われている。
また、朱熊・朱損は孫峻討伐のクーデターの首謀者のひとりとして叔母の孫魯班に讒言され、処刑された。