宇都宮等綱
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宇都宮 等綱(うつのみや ひとつな、応永27年(1420年) - 寛正6年(1460年))は室町時代中期の武将で、下野の名門宇都宮氏十四代当主。十三代当主宇都宮持綱の子。武茂綱家の孫。妻は小山氏娘、那須氏娘。十五代当主宇都宮明綱の父。下野守。
1423年、父の持綱が鎌倉公方足利持氏と対立した末に横死し、幼少の等綱は諸国を流浪することを余儀なくされたが、永享の乱で持氏が没落すると復帰し、結城合戦で幕府方につき戦功を挙げた。しかし、持氏の子足利成氏が鎌倉公方に復帰するとこれに従って江ノ島合戦で戦功を挙げる。
だが、足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したために享徳の乱が勃発し、等綱のもとにも幕府から成氏討伐令が下されると、父の恨みを晴らすために一転して成氏討伐の兵を挙げてこれを追放した。だが、1456年、古河に逃れて古河公方となった成氏によって宇都宮城は包囲され、等綱は成氏軍の圧力と重臣の裏切りによって宇都宮城から追放され、そのまま家督を子の明綱に譲って出家隠棲し、1460年、奥州白河で没した。
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