安居玉一
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安居 玉一(やすい たまいち、1922年10月10日 - )は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。改姓前は、玉置玉一(たまき-)。
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[編集] 来歴・人物
静岡県立浜松第一中学校に入学。その後、東邦商業学校に転校し、1940年に第26回全国中等学校優勝野球大会に同校のエースとして出場。翌1941年の 選抜中等学校野球大会もエースとして出場し、優勝。しかし、同年の全国中等学校優勝野球大会が中止となってしまったことから暴力事件を起こし、同校を中退。
1941年秋に阪神タイガースに入団。翌1942年は、投手として出場したものの、三塁手に転向。1943年に応召されチームを離れるが、1946年に復帰。1947年から1950年までは一塁手のレギュラーとして年間100試合以上出場し、第一次ダイナマイト打線の7番打者として活躍した。1949年に安居玉一に改姓。
1951年の年始に自由契約になり、同年大洋ホエールズに入団。自由契約後、1953年からは国鉄スワローズに入団する。1954年オフ自由契約になるが、近鉄パールスに入団。同年オフ、自由契約になるも、大映スターズに入団し、翌1957年まで活躍し、同年現役引退した。
[編集] プロフィール
- ポジション:投手→一塁手・三塁手・外野手
- 投打:右投右打
- 出身地:静岡県浜松市
- 経歴:静岡県立浜松第一中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)→東邦商業学校(現:東邦高等学校)→阪神軍・大阪タイガース(1941年~1943年、1946年~1950年)→大洋ホエールズ(1951年~1952年)→国鉄スワローズ(1953年~1954年)→近鉄パールス(1955年)→大映スターズ・大映ユニオンズ(1956年~1957年)
[編集] 成績
- (打者)実働13年 出場1392試合 打数4854 安打1298 本塁打70 打点569 盗塁116 打率.267
- (投手)実働1年 登板10試合 勝利1 敗戦3 完投1 投球回47.1 奪三振13 防御率2.06
[編集] 背番号
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