東京ヤクルトスワローズ
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東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
チーム名 | ヤクルト球団・東京ヤクルトスワローズ |
加盟団体 | セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍) |
創設年度 | 1950年 |
チーム名の遍歴 | 国鉄スワローズ(1950年~1965年) →サンケイスワローズ(1965年途中) →サンケイアトムズ(1966年~1968年) →アトムズ(1969年) →ヤクルトアトムズ(1970年~1973年) →ヤクルトスワローズ(1974年~2005年) →東京ヤクルトスワローズ(2006年~) |
フランチャイズの遍歴 | 東京都(1952年~) |
本拠地 | 1軍:明治神宮野球場(東京都新宿区)、2軍:ヤクルト戸田球場 |
収容人員 | 37933人(神宮) |
オーナー | 堀澄也 |
親会社 | ヤクルト本社 |
監督 | 古田敦也 |
タイトル | リーグ戦:6回、日本シリーズ:5回 |
(優勝年度) | (リーグ戦) 1978、1992、1993、1995、1997、2001 (日本シリーズ) 1978、1993、1995、1997、2001 |
球団の歴史
国鉄・サンケイ時代
- 1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け各地の国鉄鉄道管理局の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化しており、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きであったことも、参入実現の一要因となった。日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会が主体となり、財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などの企業により「国鉄野球株式会社」を設立。球団名を国鉄スワローズとした。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道管理局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道管理局野球部もプロでは通用せず、打てばゲッツー守ればエラーという散々な状態。エース・金田正一の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位。順位こそを振るわなかったものの、こと巨人戦では互角かそれ以上の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は関東で最も人気のある対戦であった。
- 1961年に初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は鉄道協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政であった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、更に前年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。同年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビと結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイに移る。
- 1964年、主催試合を系列のフジテレビで中継するために、本拠地を後楽園球場(巨人のグループ会社である日本テレビのみ中継権が与えられていたため)から神宮球場へ移転する。同年オフ、当時の林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(朝日新聞、巨人の親会社・読売新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、両者とも平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイへ経営権を全て譲渡し経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
- 1965年5月10日、産経新聞へ正式に球団を譲渡し球団名をサンケイスワローズに変更。
- 1966年、少年野球ファン開拓のため鉄腕アトムをペットマークに使用しチーム名をサンケイアトムズへ改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加。
- 1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと改称、実質経営権はヤクルトが握った。
- 1970年1月7日、ヤクルトが公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズに改名。
ヤクルト時代
- 1970年、92敗と歴史的大敗を喫し、ぶっちぎりの最下位。尚、セ・リーグでは2003年の横浜ベイスターズが94敗を喫すまではシーズン90敗達成球団が出てこなかった。
- 1971年に三原脩を監督に招聘するが3年連続Bクラス。
- 1973年11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。チーム名をヤクルトスワローズに変更。
- 1976年5月13日より荒川博前監督に代わり広岡達朗が監督に就任。なお、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しでこれはセ・リーグワースト記録である。(日本記録は福岡ソフトバンクホークスの南海時代の1978年からダイエー時代の1993年にかけての16年連続)
- 1978年、打者では若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエル、投手では松岡弘、安田猛、鈴木康二朗らが活躍し球団創設初優勝・日本一を達成した。しかし1979年はオフの補強に失敗し、森昌彦ヘッドコーチ解任・広岡監督途中休養もあって、一転して最下位。
- 1980年、武上四郎監督が就任。就任初年にチームは2位へ浮上するも、以後は低迷した。
- 1984年、土橋正幸監督が就任。1985年・1986年と2年連続最下位に甘んじるが、広沢克己・荒木大輔が台頭。
- 1987年、関根潤三監督を招聘。チームは低迷したが池山隆寛・栗山英樹ら若手が成長。
- 1990年、野村克也監督が就任。野村就任と同時に正捕手となった古田敦也の活躍もあって1992年・1993年とリーグ2連覇、1993年は日本一。1995年、1997年にも日本一に輝くなど、強豪チームへと成長した。野村監督は1998年限りで勇退。
- 1999年、若松勉監督が就任。2001年に日本一となった。その後も2002年~2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である(ただし2003年は、前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位であったため開幕権を得られず、2005年の開幕はビジターで行われた)。
東京ヤクルト時代
- 2005年シーズンの終了をもって若松監督が勇退。2006年からは、古田敦也が選手兼任監督として指揮を執ることになり、神宮球場をヤクルトファンで埋め尽くす事を目的とする「F-PROJECT」を立ち上げた。更にアメリカから復帰した石井一久、高津臣吾、木田優夫を獲得。
- 2005年12月19日のプロ野球実行委員会において、古田の悲願であった「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。これを機に東京都との地域密着を図るチームとして再出発し、地域密着の基本である学校訪問や、神宮周辺の青山商店街で試合の半券をもって行くと特典が受けられる、といったサービスを行っている。また、同じ東京(東京ドーム)を本拠地とする読売ジャイアンツとの直接対決を東京ダービーと呼ぶ向きもあるが、ほとんど浸透していない上、フジテレビ等一部を除くマスコミで「東京」ヤクルトと呼称される事は稀である。(「千葉」ロッテ、「福岡」ソフトバンク、「北海道」日本ハム、「東北」楽天と同様。)
- 2006年交流戦、リック・ガトームソンのノーヒットノーラン等の活躍で2位。
- 8月から東京のUHF、TOKYOMXで今年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが近年1試合も中継が無い年もあった。解説はOBの角盈男で以前は平野謙も担当であったが同氏が北海道日本ハムの打撃コーチ就任の為、前田益穂(中日・ロッテ出身、台湾野球元監督)が務める。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回
- (1978年、1992年~1993年、1995年、1997年、2001年)
- 日本一 5回
- (1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
- Aクラス 15回
- (1961年、1974年、1977年~1978年、1980年、1991年~1993年、1995年、1997年、2001年~2004年、2006年)※
- Bクラス 42回
- (1950年~1960年、1962年~1973年、1975年~1976年、1979年、1981年~1990年、1994年、1996年、1998年~2000年、2005年)
- 最多勝 83勝(1997年)
- 最多敗 94敗(1950年)
- 最多引分 16分(1978年、1981年)
- 最高勝率 .631(1995年)
- 最低勝率 .264(1970年)
- ※2003年は巨人と同率3位であり開幕権はなし
その他の記録
- 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
- 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 181本(2004年)
- 最少本塁打 36本(1951年)
- 最高打率 .283(2003年)
- 最低打率 .201(1962年)
- 最高防御率 2.29(1961年)
- 最低防御率 4.76(1984年)
歴代本拠地
- 1950年~1963年 - 後楽園球場
- 1951年 - 武蔵野グリーンパーク野球場
- 1964年~ - 明治神宮野球場
- 大学野球、高校野球(東京都地区大会予選)で神宮球場が使えない場合は主催試合を地方球場で開催する。武蔵野グリーンパーク野球場は準フランチャイズ。
チーム特徴
球団名
「スワローズ」の名称は、国鉄が当時最速を誇った特急列車であった「つばめ」号に由来する。球団旗には列車に使用されていたつばめマークを採用。「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使用している。
- ニックネーム決定の際、最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース」(国鉄の紋章“動輪に桐”に由来)の2つである。しかし、“動輪に桐”は一般にそれほど知られていたわけではなく、国鉄内部向けの印象が強かった。一方ツバメは古来よりスピードの象徴でありスピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、またツバメは人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、スワローズの方に決定した、といういきさつがある。
- 『国鉄は当初「コンドルズ」にしようとしたが、本業の鉄道が「”混んどる”ず」ではマイナスイメージだから取り止めた』『「”座ろう”ず」にすれば鉄道業としては快適なイメージだから「スワローズ」を採用した』という俗説が有名であるが、これは誤りである。なお、似たような俗説は南海ホークスにも存在する(『都市伝説』の該当項目参照)。
「アトムズ」は親会社だった産経新聞の日曜版に連載され、またグループ企業であるフジテレビで放映されていた手塚治虫原作のアニメ・鉄腕アトムからとった。
マスコット
球団マスコットはツバメのキャラクター。
- 1993年以前
- ヤー坊-1981年登場。つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。ペットマーク等に起用されず、神宮球場での着ぐるみのみであったようで、ファンの間でも存在を忘れられている。
- スーちゃん-ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。
- ボールの顔をしたマスコット-ヤー坊、スーちゃんからつば九郎の間のマスコット。神宮にはボールをモチーフにした絵、キャラが多く、かなり神宮を意識した者と思われる。
- 1994年以降
- つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。尻が重いせいか、じれったいほど動きが鈍い。12球団のメインマスコットで唯一ユニフォームを着ていないため、背番号なし。名前は公募により決定され、ツバメの別名「つばくろ」と9回・9人で行う野球の性質を合わせた名前となっている。「つばぜり合いに強く、苦労しながら接戦をものにする」という意味も込められている。
- つばみ - つば九郎の妹。
- 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。ユニフォームを着込むなど動きがいいように設計されている。背番号は「102」(登場当時、チームスタッフのつけていた最大番号が「101」だったため)。
- この内、つば九郎、つばみはフジテレビのイメージCMに出演したことがある。内容はつば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が(兄妹だろ、こいつら)と何故か「兄妹」の立場からツッコミをいれるという内容。
応援スタイル
応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使用したのは東京オリオンズであるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。
- 近年はチャンステーマにJITTERIN'JINNの「夏祭り」が使用される。
- 外人の主砲(ホームラン量産)選手にとかく応援歌として昔から「ポパイ」のテーマが使用される。現在充てられているのはアレックス・ラミレス。
- 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時の応援団長だった岡田正泰が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
- 傘応援については危ないという意見があり、横浜スタジアムでは一時期傘を使用した応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように石突の部分を柔らかい素材にしているとされている。
- 本拠地とする神宮球場では、太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。
- 2006年から選手を紹介する場内アナウンスは2人体制になり、ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ホームについては男性DJが担当している。
近年の戦績
- 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響して、マジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となり優勝決定」が3年続く珍事がおこった。
- 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり最下位も1986年を最後に落ちていない。(平成になって最下位が一度もないのは巨人、西武、そしてこのヤクルトの3球団だけである。また5位も1990年を最後になく1991年以降昨年まで4位以上と安定した成績を保っている。)それに伴って監督在任期間も長くなり平成の18年で監督を務めたのは関根1年、野村9年、若松7年、そして今年の古田監督の計4名である。一時期に常に最下位争いしていた横浜(当時大洋)の9人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
- Bクラスに低迷していた武上四郎、土橋正幸、関根潤三監督時代は、優勝チームの胴上げ試合がヤクルト戦となることが多かった。(85年阪神、86年広島、88年中日その昔は83年巨人)広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また何故か中日ドラゴンズの優勝決定試合がヤクルト戦というのが多く、星野仙一監督時代の2度の優勝は全てヤクルト戦である(88年はナゴヤ球場でそして99年は本拠地神宮球場で)。
- ヤクルトは日本シリーズに強く、通算6回出場し5回優勝している。唯一日本一を逃した1992年も、黄金時代の西武ライオンズ相手に3勝4敗であった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家たちからも「ヤクルトは大健闘した」と讃えられた。また日本一になった時は、1993年を除いては、ホームで胴上げを行っている(ただし、1978年のみ後楽園球場)。神宮での最後の敗戦は1995年第4戦で、翌第5戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中。
- 1990年代は、日本一になった次の年に、その反動で成績を落として、そのまた次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で4度が奇数年で記録されている。1992年の西武を最後に日本シリーズを連覇するチームが出ていないが、このようなヤクルトの戦績が、少なからぬ影響を与えていると言える。
その他
- 同じ東京を本拠地としているだけに、昔から巨人ファンへの対抗心は強い。国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンであった。しかし松園尚巳オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言したこともあり、後の桑原潤オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園オーナーは「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めていることので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。
- 1990年代以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどであった。このため、生え抜き監督は国鉄時代の藤田宗一、ヤクルト以降は武上四郎・若松勉・古田敦也の4人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」であった。
- 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として秋田県立野球場(こまちスタジアム)、ひたちなか市民球場・いわきグリーンスタジアム、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等がある。
- 千葉マリンスタジアムでも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年は実施されないことになった。
- 帽子マーク"Ys"の原型は、1969年~1970年のアトムズ時代に遡る(当時は"Ya"マーク)。1994年から変更されている。
- 帽子マークは、左に大きく「Y」・右に小さく「S」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「S」としていることが多い。週刊ベースボールの2軍戦日程表では一時球団略称をYsとし、湘南シーレックス(横浜ベイスターズ2軍)をSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。
ユニフォームの変遷
- 1950年~1954年 ロゴは「Swallows」で縁取りが白。1951年の途中から国鉄のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ビジター用は「TK」マーク、ツバメに「SWALLOWS」のマークを経て1953年から「Tokyo」となる。また、1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のつばとロゴ、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。
- 1955年~1960年 袖・パンツにラインが入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。
- 1961年~1965年 縁取りに赤を使用されストッキングのラインが廃止。1963年から「Tokyo」の書体を変更。1965年のみラインがWラインとなる。同時に国鉄最後のユニフォームとなった。
- 1965年 国鉄からサンケイとなり、チームカラーが赤と黒に変更される。ホーム用の左袖に「サンケイ」のロゴが入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る。ビジター用は「SANKEI」と変更された。
- 1966年~1968年 球団名がアトムズに変更され、小文字の「atoms」が登場。チームカラーが赤とブルーに変更され、アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更される。ビジター用は夏から「Sankei」となる。(※それまでは「SANKEI」)人気ブランド「VAN」が作成。
- 1969年~1970年 ラインが赤とブルーの組み合わせとなる。また、ビジター用を「Yakult」に変更し、途中からロゴもブルーに変更。ホーム用の左袖に「Yakult」のマークが入る。
- 1971年~1973年 チームカラーを赤と青から黒と橙に変更。また、「鉄腕アトム」のワッペンを廃止させるなど企業色が濃くなった。
- 1974年~1977年 ニット素材を使った縦縞ユニフォームを採用。1976年からビジター用のラインが赤とブルーに変更され、1977年にはベルト式に。また、ボタン式からプルオーバータイプとなる。
- 1978年~1989年 ビジター用の縦縞を廃止し完全フルモデルチェンジ。ホーム用のロゴはアトランタ・ブレーブスをイメージ。このユニフォームは11年間使用された。
- 1990年~1998年 パンツのラインとロゴの縁取りを廃止。1994年には袖のラインが廃止され、シンプルなデザインとなった。また、ビジター用はシャドー・ストライプとなる。
- この間、ビジター用は2段階のマイナーチェンジが施された。1994年には「Yakult」のマークを変更し、左袖に「つば九郎」が登場。1997年にはビジター用の袖のラインも廃止され、ホーム用同様シンプルとなった。
- 1999年~2005年 首周りにあったラインを廃止。25年間続いたプルオーバータイプからボタン式に変更。ビジター用はクリーブランド・インディアンスのロード用ユニのデザインがそのまま採用された。夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバ部が赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2001年に廃止された。
- インディアンス仕様のビジター用は本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせたという経緯がある。
- 2006年~ 1974年より32年間親しまれていた赤ストライプが廃止され、白地の全く新しいユニフォームとなった。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、ホーム用の左胸にはオフィシャルパートナーシップ契約を結んだUnidenの名が入っている。ホーム用、ビジター用のいずれも、ツバメの尾"スワローテイル"をイメージしたデザインに。制作は東京発のブランドメーカー「BEAMS」。
スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
歴代監督
- ※太字は優勝監督
- 1950年~1953年 : 西垣徳雄
- 1954年~1955年 : 藤田宗一
- 1956年~1960年 : 宇野光雄
- 1961年~1962年 : 砂押邦信(第一次)
- 1963年 : 浜崎真二
- 1964年~1965年 : 林義一
- 1965年 : 砂押邦信(第二次)※1
- 1966年~1967年 : 飯田徳治 ※2
- 1968年~1970年 : 別所毅彦 ※3 ※4
- 1970年 : 小川善治
- 1971年~1973年 : 三原脩
- 1974年~1976年 : 荒川博 ※5
- 1976年~1979年 : 広岡達朗 ※6
- 1980年~1984年 : 武上四郎 ※7
- 1984年~1986年 : 土橋正幸
- 1987年~1989年 : 関根潤三
- 1990年~1998年 : 野村克也
- 1999年~2005年 : 若松勉
- 2006年~ : 古田敦也(選手兼任) ※8
- ※1 ここからサンケイスワローズ
- ※2 ここからサンケイアトムズ
- ※3 ここからアトムズ
- ※4 ここからヤクルトアトムズ
- ※5 ここからヤクルトスワローズ
- ※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は佐藤孝夫が代行
- ※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは中西太が代行
- ※8 ここから東京ヤクルトスワローズ
永久欠番
準永久欠番的な背番号に以下のものがある。ただし、いずれも他の者がつけている。
- 1:若松勉(1990年~1991年、池山隆寛が「チームを牽引する役割を果たしたい」と言って36から変更した)
- 22:高津臣吾(2003年~2005年、石井一久復帰のため、それまで16だった高井雄平が変更。直後にヤクルトに復帰が決定した高津の背番号は11となった。2007年から高津の背番号は「22」に変更し、5年ぶりに「22 高津」が復活する。)
歴代の球団歌
- とびだせヤクルトスワローズ(歌:松岡弘)
- 青春のダイヤモンド
- スワローズの応援歌としては東京音頭があまりに有名なため、どちらもあまり知られていない。球場に通うファンでも、歌えない人は多い。
キーワード
下山事件とプロ野球参入
1949年7月5日、国鉄総裁・下山定則が失踪し、常磐線綾瀬駅付近の線路上で謎の轢死体で発見された。その後下山の死因をめぐり、2リーグ分立の主役に躍り出ることになる読売新聞と毎日新聞の報道面での対立(読売と朝日新聞が他殺体と報道しているのに対して、毎日が自殺と報道した)があった。
しかし、歴史の項でも触れたように2リーグ分立が具体化されると国鉄野球部員の集団引き抜きも相次ぎ、国鉄職員の団結力の向上を目指し、下山から総裁を引き継いだ加賀山之雄が、1950年1月に国鉄スワローズを結成。どちらのリーグに参加するかで話題となったが、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)もあり、自殺説を報じた毎日主導のパ・リーグへの参加を断固拒否し、他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請を行ったといわれている。ちなみに下山の死因に関しては解明されていない。
※この項の参考資料『ザ・真相』(2004年10月11日放映・テレビ東京)
2リーグ制以後唯一の・・・
球団の歴史にもあるが、ヤクルトの前身球団は2リーグ制発足以後唯一となる例を2つ持っている。一つはシーズン途中でのチーム名変更で、1965年シーズン開幕当初は国鉄スワローズとしていたが、4月23日に産経新聞、フジテレビへの球団譲渡が発表されたことを受けて5月10日の試合からサンケイ(産経)スワローズとした。
もう一つはチーム名がニックネームのみとなったケース。1969年、チームの運営会社は「株式会社産経アトムズ」であったが、ヤクルト本社が実質的に経営の主導権を握ったので「ヤクルト主導のサンケイアトムズ」ではまずいと感じた球団はシーズン開幕直前にニックネームのアトムズだけを球団名としてリーグ戦に出場させた。その後1970年1月に正式に産経新聞が経営から撤退し、ヤクルトアトムズが誕生した。(次項・フジサンケイグループ参照)
フジサンケイグループ
1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が日本テレビ放送網しか与えられていなかったため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。
国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト、チームの運営等はフジサンケイからヤクルトに転入したもので構成されているという。)。
これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(旧:大洋球団)の株式を保有している。同一企業グループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーである楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(70%保有)であるTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。
尚、フジテレビ739(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合(交流戦(日本版インターリーグ)18試合含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった(これまではフジテレビが資本参加するJ SPORTSで放送されていた)。
最少観客動員
サンケイアトムズ時代の1966年10月12日に行われた中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダー(川崎球場で開催)では2試合ともたった100人の観衆しか集まらなかった。これはプロ野球の最少観客動員記録である。この前日(11日)も同じ球場で開かれた広島カープ戦のダブルヘッダーもそれぞれ250人、300人しか入らなかったという。どんなに地味だったかをアピールしている結果になってしまった。
試合球到着遅延事件
サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園・横浜平和球場で行われた中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使用する予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受けてしまい、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。
その為公式記録員がセ・リーグの鈴木竜二会長に連絡を取り、鈴木会長は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」指示を出したが中日側が拒否。結果的には公式球の到着を待って12:37にやっと試合開始となった。一時中日の西沢道夫監督が「セ・リーグのレギュレーション上、ダブルヘッダーは日没5時間前までに第1試合を開始しなくてはいけないので第2試合は中止になってしまうのでは」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。
開幕129試合連続得点
初優勝した1978年、ヤクルトは開幕戦から完封負けも0-0の引き分けもなしの記録を129試合続け、ついにシーズン最終戦(対広島)を迎えることになった。広島の先発はプロでは完投経験もなかった2年目の大野豊で、シーズン全試合得点の大記録達成は確実と思われた。ところがこの大野をヤクルト打線は打ち崩すことができずプロ入り初完封勝利を献上、あと一歩のところで記録を逃した。前年からの143試合連続得点は当時の日本記録。のちにシーズンを跨ぐ形の記録は更新されたが、1シーズン全試合得点の記録は2006年までまだ達成した球団はない。
1978年の日本シリーズ
使用球場変更
1978年、ヤクルトは前身の国鉄時代から数えて29年目で初のリーグ優勝を決定し、日本シリーズに駒を進めた。しかし、神宮球場を本来使用するべきところだったが、この時期は東京六大学野球リーグ戦、東都大学野球リーグ戦と開催日が重複しているため、日本シリーズのナイター開催、あるいはその逆で学生野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、この年のシリーズのヤクルト主催ゲームは後楽園球場に代替して開催された。
その後、1992年・1993年の日本シリーズは学生野球をナイター開催とし、日本シリーズ(デーゲーム開催)の神宮開催が実現している。
疑惑のホームラン
ヤクルトと阪急が共に3勝3敗で迎えた第7試合(10月22日)、ヤクルトが1-0でリードして迎えた6回裏、当時の4番・大杉勝男選手がレフトポールぎりぎりにホームランを放った。しかし、これが後楽園球場のレフトポールを切れてスタンドに入ったのではないか(即ちファールボールではないか)と、阪急の簑田浩二選手と上田利治監督らが抗議。
一時阪急は放棄試合も検討し始め、「審判があんな判定をするんだったら変えるべきだ」とまで要求してしまい、挙句の果ては金子鋭コミッショナーが阪急のベンチに説得するまでの事態に発展。「(コミッショナーである)ワシが頭を下げてもダメなのか!?」と言わせてしまうまでに上田監督は試合再開をかたくなに固辞し、結局1時間19分という日本シリーズ史上最長の中断時間を経て試合が再開された(この時点で阪急の上田監督は辞任を決意していたという)。
異様な雰囲気が続く中、大杉は8回裏に「正真正銘のホームラン」を放ち(2ラン)、阪急に引導を渡した。大杉はこのシリーズのMVPを獲得している。
本拠地で優勝チームの胴上げ
ヤクルトは1985年と1986年に2年連続で最下位になったが、1985年は阪神タイガースの優勝、翌1986年は広島東洋カープの優勝と2年連続で本拠地の神宮球場で許した。2年以上連続で最下位になったチームがその内2年以上連続で自分たちの本拠地で敵将の胴上げを許しているのはセ・リーグではヤクルトだけである。
日本プロ野球選手会脱退
1985年日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、ヤクルト本社には労働組合がないことから、スワローズ選手会は労働組合である団体には加盟できないとして、日本プロ野球選手会から脱退した。
記者会見がひらかれ、当時のヤクルト選手会長である角富士夫は、スワローズ選手会による自発的な行動である旨を表明したが、その際に『表裏一体』を"おもてうらいったい"と誤読してしまい、「誰か他の者が作成した原稿を読んでいるだけであり、選手会の自発的な行動ではなく、ヤクルト本社の意向がはたらいている」ことが露呈してしまった。
プロ野球史上最長試合
1992年9月11日の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。
この試合、3対3で迎えた9回裏、阪神八木裕のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、延長15回引き分けに終わった。
この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、また延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。
なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ(1996年9月8日対横浜戦(下関) 6時間19分)である。
幻の「優勝決定プレーオフ」
1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残った阪神とヤクルトに、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月10日)と日本シリーズ開幕(10月17日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである(当時公式戦に使用できるドーム球場は東京ドームだけであった)。
両チームに残った直接対決の2試合に、阪神が連勝すればプレーオフ実施となったところであったが、直接対決の1戦目にヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻となってしまった。
高得点の1点差試合の日本記録
1993年5月19日・神宮球場での広島東洋カープ戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に池山隆寛の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった高津臣吾を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース佐々岡真司までも投入するが、午前0時を回った延長14回にヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。
試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。 なお、この試合のスコアは以下のとおり。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 1 | 4 | 2 | 1 | 1 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 |
ヤクルト | 2 | 0 | 11 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1X | 17 |
1995年の開幕3連戦
1993年の日本一から、1994年は一転してBクラスへ転落。さらに主軸の広沢克己、ジャック・ハウエルの2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は斎藤雅樹に完封され、続く第2戦も桑田真澄に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が飯田哲也に頭部死球を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。
この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトの西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となってしまった。
1997年優勝
シーズン開幕前、オマリーが退団し4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人のホージーもキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は清原和博・ヒルマン・石井浩郎を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。
迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す斎藤雅樹。しかしヤクルトは広島から移籍した小早川毅彦の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。野村克也監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の高津臣吾に代わって伊藤智仁がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもありペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが8月頃から横浜が猛追。最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で石井一久がノーヒットノーランを達成し勢いを取り戻し、最終的には横浜に9ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座から転落することなく優勝した。
2001年のリーグ優勝
シーズン開幕前は、川崎憲次郎の退団・伊藤智仁の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を藤井秀悟・入来智・前田浩継の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。
後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に古田敦也が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。2位巨人との最終3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたためなんとか優勝を果たす。
そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが勝ち数優先の順位決定である。2001年、セリーグは勝数で順位を決定(ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定)する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームであった。
ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなった。
このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらない。
史上最速でのサイクルヒット
2003年7月1日の横浜ベイスターズとの対戦において、稲葉篤紀は第1打席から順番に3塁打、本塁打、単打、2塁打の順番でサイクルヒットを達成したが、これは5回までに達成するという史上最速の記録だった。その試合自体は5回雨天コールドゲームで試合終了となった。コールドで記録された唯一のサイクルヒットでもある。
対巨人6年連続負け越し中
ヤクルトは巨人のエース上原浩治を大の苦手にしており、1点差や2点差の僅差の試合でも平気で完投させてしまっている(その中には1-0というスコアで完封勝利させてしまう試合まであった。ちなみに、ヤクルトの上原との通算対戦成績は勝利数、三振数、勝率、総得点ともにダントツでリーグワーストである)上に、上原の自己最高記録である1試合14奪三振を2度も許している(上原に1試合14奪三振を許しているのはヤクルトと東北楽天)。その他にも桑田真澄をはじめとして苦手投手が多く、これが響いてかヤクルトは優勝した2001年から毎年巨人に負け越し続けている。2001年や2004年、2005年、2006年はセ・リーグ5球団の中で対巨人戦は勝率、敗数共にリーグワーストであり、特にBクラスに転じた2005年はその上原や桑田が大不振に陥っており、巨人が低迷していたにもかかわらずヤクルトは彼らからなかなか点を取ることができず、セ・リーグ5球団の中で唯一巨人に負け越した。
球団側もこのことはかなり憂慮しており、「ヴァーチャル上原」というピッチングマシンを導入。これはテレビ画面がマシンの後ろにくっついており、上原がそこに映る。画面上で投げる上原のリリースポイント付近から、ボールが飛んでくるというものである。おなじものが神宮球場の近くのバッティングセンターにある。
ロケットボーイズ
- 2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募により決められた。
- もともとリリーフエース・高津臣吾へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことにより2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板し球団新記録となる42セーブポイントを挙げ最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦における登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。先発投手から石井→五十嵐への継投はヤクルトの盤石の投手リレーであった。
- 2005年は前年同様に「中継ぎ・石井、抑え・五十嵐」で開幕を迎えたものの、五十嵐の不調で石井がストッパーに回った。石井・五十嵐双方が抑え投手の務まる実力を持ち、役割が入れ替わっても継投に綻びが生じないのが、ロケットボーイズの最大の特徴であった。しかし、2006年は五十嵐の不調、石井のケガによる度重なる戦線離脱で、ほとんど機能しなかった。2006年オフには両者とも手術を受け、2007年の活躍も絶望視されている。
社会人野球大会出場
- 2005年、スワローズの2軍は社会人野球の公式戦の一つ「JABA日立市長杯争奪大会」に初出場した。社会人野球の大会にプロの2軍チームが出場するのは広島東洋カープがJABA広島大会に2002年から毎年恒常的に参加しているのと、2003年に福岡ダイエーホークスが1年限りでJABA九州大会に参加したが、それに次ぐ3例目である。チームは同年4月の大会で沖縄電力、明治安田生命、日立製作所と4チームによる総当り方式の予選リーグ戦を行ったが、1勝1敗1分けの成績で予選通過はならなかった。
- 2006年、スワローズ2軍は再び日立大会に参加。予選リーグではJR東日本東北、東京ガス、住友金属鹿島と同ブロックに振り分けられ、2勝1敗のブロック1位で予選を突破。決勝トーナメントに進出したが、同大会で優勝した富士重工業に1-6で完敗し、またも優勝を逃している。
F-Projectとヤクルトタウン
- 2006年、ヤクルトは日本プロ野球界としては30年ぶりに誕生するプレイングマネージャー・古田敦也監督兼捕手が中心となってFull(満員)Fun(熱狂)Furuta(古田)の頭文字「F」から取った「F-Project」という球団改革構想に着手する。よりファンと選手・チームとの距離・接点を身近なものにして、神宮球場をヤクルトファンで埋め尽くし、またなおかつ、単に応援するチームとしてでなく、ファンがチームに参加することを念頭に置いた様々なファンサービス企画を展開していく。外部からも、価格.com(カカクコム)社の穐田誉輝社長を招き、IT産業も絡ませた多角的経営姿勢の実現を目指すことも打ち出している。
- 2006年から古田監督の提案で地域密着型のチーム運営を目指すとして、チームの名称に「東京」を冠化して「東京ヤクルトスワローズ」とすることになった。東京の地名が入る球団名は過去に戦前の東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍、戦後の東京オリオンズの例がある。またこれを機に、神宮球場周辺の新宿、港、渋谷区の3特別区を「ヤクルトタウン」と位置づけたホームタウン活動を展開するがまだ一般には根付いていない状態である。
- こうしたプランが実行されたのは、球界再編問題のとき日本プロ野球選手会の会長だった古田が監督に就任したこともあるが、ヤクルト主催試合の観客動員数の減少も背景にある。
主催試合の観客動員数は、1992年の247万7000人をピークとして減少を続け、2005年は実数発表もあって約131万人まで落ち込んでおり、特にヤクルトファンの来場者の減少が目立っている。もとより、本拠地である神宮球場はビジターファンが多かったのだが、1990年代に優勝が多かったときには、ヤクルトファンの来場者が増えて、一塁側はかなりスワローズファンが占めるようになっていた。しかし増えたヤクルトファンが再び減少したことに伴い、阪神・巨人など人気チームとの対戦では、かつてのように一塁側内野席のほとんどがビジター側のファンで占められるようになり、ライトスタンドの一部までビジター側のファンがなだれ込むほどである。
こうした動きに対し、宮本慎也が「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのはさびしい」と語るなど、選手からも懸念する声が挙がっており、特にヤクルトファンの来場者を増やすことが求められている。 - 従来、本拠地球場である神宮球場の使用割り当ては学生野球が最優先されていたが、当プロジェクトによる働きかけもあって、従来は東都大学リーグの使用分であったGW中(2006年5月3日・5月4日)と前年に引き続きこれも従来は東都大学リーグ使用分であった6月3日・6月4日のデーゲーム開催を獲得した。また、4月1・2日の開幕シリーズ(阪神戦)も、従来は六大学野球の社会人との定期戦使用割り当て分だったが、今年はプロ野球のデーゲームとしての使用になった。
- また、オフィシャルスポンサーとして家電製造業・ユニデンとホームゲーム用のユニホーム左胸部分にロゴマークを掲出したほか、都民参加型チームを作るという観点から、東京都民銀行ともスポンサー契約を結び、PR活動などを行うことになった。
- 2006年7月、JリーグのFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。同年9月にはbjリーグの東京アパッチとも提携を結んだ。
明治神宮外苑創建80年記念奉納試合
明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に東京六大学選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。
ベンチはクラブハウス位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援であった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に東京ドームで実施されていた日米野球のメンバーに選ばれていた青木宣親が、早稲田大学出身ともあってこの試合に出場し、その後ナイター開催の日米野球にも出場するダブルヘッダーをこなした。
関連項目
外部リンク
0 志田宗大 | 2 アダム・リグス | 3 アレックス・ラミレス | 4 度会博文 | 5 アーロン・ガイエル | 6 宮本慎也 | 7 田中浩康 | 8 武内晋一 | 9 鈴木健 | 10 城石憲之 | 11 遠藤政隆 | 12 高木啓充 | 13 佐藤賢 | 14 高市俊 | 15 村中恭兵 | 16 石井一久 | 17 川島亮 | 18 藤井秀悟 | 19 石川雅規 | 20 鎌田祐哉 | 21 松岡健一 | 22 高津臣吾 | 23 青木宣親 | 24 花田真人 | 25 館山昌平 | 26 河端龍 | 27 選手兼監督 古田敦也 | 28 川本良平 | 29 セス・グライシンガー | 30 西崎聡 | 31 真中満 | 32 小野公誠 | 33 畠山和洋 | 35 三木肇 | 36 川端慎吾 | 37 福川将和 | 38 衣川篤史 | 39 梶本勇介 | 40 大原秉秀 | 41 高井雄平 | 42 木田優夫 | 43 宮出隆自 | 44 松井光介 | 45 坂元弥太郎 | 46 飯原誉士 | 47 田中充 | 48 上原厚治郎 | 49 アレックス・ラミレス・ジュニア | 50 上田剛史 | 51 米野智人 | 52 伊藤秀範 | 53 五十嵐亮太 | 54 宇野雅美 | 55 野口祥順 | 56 山田裕司 | 57 丸山貴史 | 58 丸山泰嗣 | 59 水野祐希 | 60 石堂克利 | 61 石井弘寿 | 62 吉川昌宏 | 63 増渕竜義 | 64 牧谷宇佐美 | 65 松元ユウイチ | 66 山田弘喜 | 67 大塚淳 | 78 ディッキー・ゴンザレス |
72 伊東昭光 | 79 成本年秀 | 77 八重樫幸雄 | 73 杉村繁 | 83 馬場敏史 | 82 佐藤真一 | 71 中西親志 | 93 海老野貴勇 | 80 二軍監督 小川淳司 | 84 伊藤智仁 | 99 山部太 | 74 荒井幸雄 | 75 土橋勝征 | 76 角富士夫 | 85 飯田哲也 | 70 上原茂行 | 89 猿渡寛茂 | 97 高橋寛 |
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
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読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス |
日本シリーズ | オールスターゲーム | 日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本プロ野球選手会 | 名球会 | 独立リーグ |
カテゴリ: 半保護 | 東京ヤクルトスワローズ