横浜ベイスターズ
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横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
球団事務所は本拠地の横浜スタジアムの近くにある、関内新井ビル7階(横浜市中区尾上町)
2軍の球団名は湘南シーレックス。2軍の本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。練習所及び合宿所は、横須賀市の横浜ベイスターズ総合練習場。
横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
チーム名 | 横浜ベイスターズ |
加盟団体 | セントラル・リーグ |
創設年度 | 1950年 |
チーム名の遍歴 | 大洋ホエールズ(1950年~1952年) →大洋松竹ロビンス(1953年) →洋松ロビンス(1954年) →大洋ホエールズ(1955年~1977年) →横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年) →横浜ベイスターズ(1993年~) |
フランチャイズの遍歴 | 山口県(1952年)→山口県・京都府(1953年・1954年)→神奈川県(1955年~) |
本拠地 | 横浜スタジアム(神奈川県横浜市) |
収容人員 | 30000人 |
オーナー | 若林貴世志 |
親会社 | 東京放送(TBS) |
監督 | 大矢明彦 |
タイトル | リーグ戦:2回、日本シリーズ:2回 |
(優勝年度) | (リーグ戦)1960、1998 (日本シリーズ)1960、1998 |
目次 |
[編集] 球団の歴史
[編集] 下関・大阪=洋松・川崎時代
- 元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。
- 1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
- 同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
- 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
- 1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。
- 1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。
- 1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。
- 1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からのリーグ優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは毎日大映オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
- クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
- 読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。
[編集] 横浜大洋時代
- 1978年、西武鉄道グループの出資を受け入れ、同社の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりファンが急増したとされる。オーナーであった中部謙吉が前年に死去し、親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団は三男の中部新次郎がオーナーとなる。国土計画(現コクド)の堤義明は、大洋の球団株を持っていたが西武ライオンズ買収のため、ニッポン放送とTBSへ2:1の割合で球団株を売却。
- 1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。
- 1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたもののチームは先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。
- 1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
- 1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、思い届かず低迷。
- 1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。
[編集] 横浜ベイスターズ時代
- 1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。また、高木豊・屋鋪要ら主力選手が大量解雇され、駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。
- 1994年、獲得した駒田徳広の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。
- 1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。しかし、近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。また、鈴木尚典が3番レフトに定着。後のマシンガン打線を構成する主要なメンバーがほぼ出揃った。
- 1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。
- 1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン終盤に首位・ヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず37年ぶりのリーグ優勝を逃す。 しかし、勝利への執念が選手に根付き、翌年の快進撃につながる事となった。 大矢監督は快進撃をサポートしつつも2年契約を終えオフに辞任。
- 1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と、一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い38年ぶりのリーグ優勝・日本一を果たした。佐々木の愛称にちなみ大魔神社が建立される。
- 1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
- 2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。
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- ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
- 2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、ルールに救われる形で5年連続のAクラス(3位)を確保する(この年の順位に関しては後述)が、これは「日本プロ野球史上最もおかしいAクラス」という声が少なくない。
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- シーズンオフに親会社(筆頭株主)がマルハからTBS(東京放送)へ移行し、オーナーが当時の社長砂原幸雄となった。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、TBSラジオで巨人戦以外の週末のデーゲームをTHEベースボール・ベイスターズと題して放送を開始した(しかし、同時間帯のレギュラー番組の好調により1シーズンで終了)。
- 2002年、開幕から低迷を続け、森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目であったが、この年限りで事実上の解任となる。
- 2003年、山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、他球団や他球団のファンからは完全にお荷物扱いされる。
- 2004年、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗退し45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
- 2005年、牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
- 2006年、共に福岡県の東福岡高校出身である村田修一・吉村裕基の台頭があったものの、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、野手陣の相次ぐ不調・故障などにより、再び底辺をさまよう。球団側は続投を希望したものの、牛島監督は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、またしても2年で監督が交代することとなった。シーズンオフには投手陣強化のため、毎年のように故障続きで戦力として計算しにくい多村仁をソフトバンクに放出し、寺原隼人を獲得。また、ここ数年毎年のように移籍が噂されていた巨人の仁志敏久を、小田嶋正邦+金銭のトレードで獲得する。さらには、この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が減俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍。激変のオフとなった。
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- 4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 2回
- (1960年、98年)
- 日本一 2回
- (1960年、98年)
- Aクラス 15回
- (1960年、1962年、1964年、1969年~1971年、1979年、1983年、1990年、1997年~2001年、2005年)※1
- Bクラス 42回
- (1950年~1959年、1961年、1963年、1965年~1968年、1972年~1978年、1980年~1982年、1984年~1989年、1991年~1996年、2002年~2004年、2006年)
- 最多勝 80勝(1964年)
- 最多敗 99敗(1955年)
- 最多引分 17分(1979年)
- 最高勝率 .585(1998年)
- 最低勝率 .238(1955年)
- 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
- 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年~2001年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1950年~1959年)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
- 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
- 最多本塁打 194本(2004年)
- 最小本塁打 51本(1955年)
- 最高打率 .294(1999年)
- 最低打率 .208(1956年)
- 最高防御率 2.31(1971年)
- 最低防御率 4.94(1977年)
[編集] チームの特徴
[編集] 球団名
- 第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。
- 以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業のかつての主要業務が捕鯨だったことに由来する。
- 現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた。日本人が考えた造語は英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。
- 12球団で唯一、球団名に企業名が入っていない、アメリカメジャーリーグ方式の球団名である。2軍の球団名も、企業名が入っていないのは湘南シーレックスのみである。ちなみに、広島東洋カープの「東洋」はマツダの旧社名、東洋工業に由来している。
[編集] マスコット
- 球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。
- ホッシー - 背番号1993(登場年にちなむ)。瞳が偏っているホッシー(ニューホッシーとも)もいる(背番号2001)。
- ホッシーゾ - ホッシーの息子。背番号1993。
- ホッシーナ - ホッシーの娘。背番号1993。
- ブラックホッシー - 黒いユニホームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。はちゃめちゃなアクションで人気を得たが2004年限りで消えた。
- 球団のマスコットではないが、横浜スタジアムではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオの番組であるエキサイトベースボールのマスコットである「エキベ~」が登場する。
[編集] 応援スタイル
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様であるが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。その独特の旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。ファンの絶対数が少ないこともあり、関東以外のビジターでは駆けつけるファンもやや少なく、トランペットの音しか聞こえないことや、場合によっては相手球団のファンの声に完全にかき消されてしまうこともある。
以下は2007年時点のもの
- 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。
- 代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。ただし、佐伯貴弘・村田修一・鈴木尚については、代打で登場した場合でもファンファーレや「タカノリ」コールが優先される。
- 投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。過去には斎藤隆・野村弘樹・河原隆一に対しても固有のテーマが演奏された。
- 以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていた。現在(近年入団した選手)では応援団が作成したテーマや、過去(あまり使用されなかった選手)のものを流用するなどしている。
- チャンステーマ演奏時や太鼓が使用出来ない神宮球場では、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。
- 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船飛ばしは横浜スタジアムで禁止されていることもあり、ビジターでも行われない。
- アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われる。
- 種田仁の打席時に行われる「タネダンス」や、鈴木尚の打席時に歌詞に合わせて「両手を高く挙げる」動作は、一部の人がやっていたものがいつしか広まっていったものである。
[編集] 戦績
- 現存するセ・リーグの球団の中で、シーズン勝率が6割に達したことがない(最高は1998年の.585)唯一の球団である。
- 日本シリーズに出場は2回しかないが、現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。
- 親会社の交代、谷繁元信の中日へのFA移籍が行われた2002年以降、5年間で最下位4回と横浜大洋時代にもなかったような低迷を続けている。
- 現存するセ・リーグの5球団全てに対して、通算対戦成績が負け越している。唯一勝ち越していたヤクルトに対しても、1990年代のヤクルト躍進と21世紀に入ってからの横浜の低迷によって勝敗が逆転してしまった。
- チーム事情は打高投低。投手陣の整備に四苦八苦する一方、野手の成長には著しいものがあり、村田修一、吉村裕基、古木克明などの若いスラッガーに恵まれている。
[編集] 営業・ファンサービス
- 以前は巨人戦のみ内野自由席を指定席として販売していたが、2005年以降行われていない。
- 200?年から、レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売するようになった。さらに、2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
- 2005年から、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。これにより選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。しかし、この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
- 試合前・試合中に行われるイベントの種類・回数はかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何らのイベントが行われている。
- 以下は2007年時点のもの
- スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例)
- スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
- ベイスターズバズーカ(客席にシャツやカラーボールを発射、試合中に3~4回程度)
- ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)
- 帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)
[編集] その他
- 監督にチームの生え抜きOBは少なく、在籍経験がないか、あっても短いいわゆる「外様」が多い。歴代の生え抜き監督は秋山登・土井淳・江尻亮・近藤昭仁・山下大輔の5人しかいない。生え抜きかどうかを問わず、監督の平均在任期間が短いのも特徴。平均は2.2年(2006年までの56年間に延べ26人)で、通算5年以上監督を務めたのは三原脩と別当薫の2人にすぎない。この短命続きが長期的なチーム作りの障害になっているという声もある(牛島前監督も成績不振を理由に06年に2年の契約を終えると退団した)。横浜と対照的な動きで弱小チームから安定した強豪チームに変貌したのはヤクルト。大洋、広島と並んでBクラスの常連だったヤクルトは1990~2005年の16シーズンを野村克也と若松勉の2人の監督でまかない、リーグ優勝5回の強豪チームとなった。
- 1998年の優勝前後に複数年契約を連発し失敗したことへの反省から、契約は単年契約を基本としている。しかし、2005年オフに複数年契約を強く希望したマーク・クルーンに2年の契約を結ぶなど、一貫していない点も見られる。長期的な評価ができない単年契約固執が監督の在任期間を短くしていると見る向きもある。
- 球団関連会社から『月刊ベイスターズ』というファンマガジンを発売(毎月25日)している。やくみつる・山本哲士といった辛口のコラムニスト陣が球団を容赦なく批判することで有名。漫画家のみずしな孝之は『月刊ホエールズ』(当時)への投稿がきっかけで漫画家デビューした(1999年に連載復帰、今も続いている)。
[編集] ユニフォームの変遷
- 1950年~1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。
- 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
- 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎がピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。ちなみにこのフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。
- 1953年 松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用だった。ビジター用は筆記体で「TSR」。
- 1954年 球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。
- 1955年 大洋ホエールズが復活。同時にロゴの中に線が入ったおしゃれなユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
- 1955年~1958年 ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社の「まるはマーク」に変更。
- 1959年~1962年 白地に橙色の「Whales」ロゴ。1960年から地色がクリームとなり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。
- 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、ラインが橙色から赤に変更される。
- 1964年~1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年には、ワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の英文字がそれぞれ使われた。
- 1973年 白地で橙色のロゴが1シーズンだけ復活。
- 1974年~1977年 橙色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニフォームを使用。ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている(湘南電車カラーと呼ばれる。経緯については後述)。
- 1978年~1992年 本拠地が川崎から横浜への移転を期に、球団名が横浜大洋ホエールズとなり、ホーム用は白地にマリンブルーをあしらった。ホーム用は当時では斬新な本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」が入った。ビジター用はマリンブルー地に白で「TAIYO」。
- 1993年~ 横浜ベイスターズとなり、ホーム用は白地ピンストライプに青レターで「BayStars」のロゴが入る。ビジター用は青地に白レターで「YOKOHAMA」の文字とBの印が入っている。1996年に帽子の印を変更(星の数を3つから1つへ。ただし同デザインのビジター用のマークは2005年まで採用)。
- 2005年 新しくセ・パ交流試合専用ユニフォームを使用、ホーム用はピンストライプがなくなった。左胸には「β」の印、右袖に背番号。TBSのロゴが入った。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
- 2006年 ビジター用を13年ぶりにデザイン変更した。前年交流戦用ユニフォームの生地を使用し、2005年までの左胸のβの後ろにある星のマークを削除し「YOKOHAMA β」のみとした。またホーム用にもマイナー変更を施し、白地を明るくしピンストライプ部分をプリントに、軽量化かつコストダウンを図った。キャッチャーマスクのデザインも大きく変更した。
[編集] 夏季限定ユニフォーム
2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。
- 2004年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り脇下が青で西武ライオンズのデザインと非常に似ていた。
- 2005年にも同じように限定ユニフォームを着用、両年とも期間終了後に選手のサインをいれファンへプレゼントされる(背番号の氏名ローマ字は記載されていない)。
- 2006年にはデザインが変更され、白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
[編集] 歴代本拠地
※本来は旧松竹ロビンスの本拠地衣笠球場と旧大洋ホエールズの本拠地下関球場のダブルフランチャイズだったが、実質的には旧松竹の準本拠地とされていた大阪球場の方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。
[編集] 歴代監督
※斜字は生え抜き監督。
- 渡辺大陸(1950年)
- 中島治康(1951年)
- 有馬義一(1951年)
- 小西得郎(1952年-1953年)※1
- 永沢武夫(1954年)
- 藤井勇(1955年)※2
- 迫畑正巳(1956年-1958年)
- 森茂雄(1959年)
- 三原脩(1960年-1967年)
- 別当薫(1968年-1972年【第1次】)※3
- 青田昇(1973年)
- 宮崎剛(1974年)
- 秋山登(1975年-1976年)
- 別当薫(1977年-1979年【第2次】)※4
- 土井淳(1980年-1981年)※5
- 関根潤三(1982年-1984年)
- 近藤貞雄(1985年-1986年)
- 古葉竹識(1987年-1989年)
- 須藤豊(1990年-1992年)
- 江尻亮(1992年)
- 近藤昭仁(1993年-1995年)※6
- 大矢明彦(1996年-1997年【第1次】)
- 権藤博(1998年-2000年)
- 森祇晶(2001年-2002年)※7
- 山下大輔(2003年-2004年)
- 牛島和彦(2005年-2006年)
- 大矢明彦(2007年-【第2次】)
- ※1 1953年から松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンス
- ※2 ここから大洋ホエールズ(第2次)
- ※3 1972年は8月30日まで指揮、残り試合は青田昇と宮崎剛が代行
- ※4 ここから横浜大洋ホエールズ
- ※5 1981年は9月24日まで指揮、残り試合は山根俊英が代行
- ※6 ここから横浜ベイスターズ
- ※7 2002年は9月25日まで指揮、残り試合は黒江透修が代行
[編集] 永久欠番
- 100-球団に対して貢献のある著名人(複数)
[編集] 歴代の球団歌
- 熱き星たちよ(球団歌)
- 勝利の輝き(応援歌)
- 若き王者たち(公式ソング)※湘南シーレックス
- Searex Horizon(公式テーマ)※湘南シーレックス
[編集] 過去に使用された球団歌
- 行くぞ大洋(球団歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)※大洋・横浜大洋時代
- 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)※大洋・横浜大洋時代
- 横浜Boy Stile(イメージソング)(歌:CoCo)
- WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
- BE A HERO(公式ソング)(歌:クレイジーケンバンドfeat.小野瀬雅生)
- 2007年からスローガンが「なせば成る~Move on~」に変更されたため、使用されなくなる見通し。
[編集] 出来事
[編集] セ・リーグ最長イニング記録
- 1952年9月7日に西京極球場で開いた松竹との対戦(ビジター)でセ・リーグの当時の最長イニング記録である延長20回(1-2x敗戦)を戦い抜いた。
[編集] 38年の空白
- 大洋ホエールズとして1960年に初優勝を果たした後、次の優勝は実に38年後の1998年まで待たなければならなかった。ホエールズ時代からのオールドファンはその38年間をジッと耐えてきたわけだが、優勝寸前までいった年もあった。
- 1964年は終盤まで阪神タイガースとデッドヒートを繰り広げていた。残り2試合で1勝すれば優勝というところまで漕ぎ着けて臨んだ甲子園での阪神戦。大洋ナインは「直接対決で優勝を決めてやる」と意気込んで敵地に乗り込んだ。しかし、雨。グラウンドコンディション不良で試合は中止に。降った雨はごくわずかで、やろうと思えばできる程度だったが阪神側の意向で中止になったという(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。
- 当時、このような“戦略的試合中止”と見られる例がいくつかあった。代表的なケースが1958年の日本シリーズ第4戦。「九州各地から観戦に来るファンのため、早い段階で開催か中止かを決める必要がある」として午前中に早々と中止を決めた。開始予定時刻を迎えた平和台周辺の天気は回復しており、「3連敗で苦境に立たされた西鉄が不調の稲尾を休ませた」という噂が絶えなかった。
- 試合中止で出鼻を挫かれた格好の大洋は直接対決に備え体をほぐそうと練習場を探した。ところが甲子園に近い施設が確保できない。ようやく手当てできたのは京都・西京極球場。ナインはバスでわざわざ京都まで移動したものの、かえって調子を崩してしまった。翌日のダブルヘッダーに大洋は連敗。息を吹き返した阪神は9連勝で逆転優勝を果たした(優勝を決めたのは8連勝目の中日ドラゴンズ戦)。
- 当時大洋の正捕手として活躍していた明大五人衆の一人、土井淳は「1962年(この年も終盤まで阪神と競り合いながら優勝を逃している)と1964年のどちらかに優勝していたら、38年も優勝から遠ざかることはなかったと思う」と語っている。そして、高度成長期、東京オリンピック、新幹線開業、大阪万博、オイルショック、バブル景気と日本が経済的に疾走を続ける間、このチームは沈黙を続け、暗く沈鬱なバブル崩壊の余波が終わりに近づいたころ、ようやく二度目の優勝で両目を開けた。
[編集] 湘南電車カラーのユニフォーム
- 1974-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。しかしこのユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団。当時の大洋は草薙球場でキャンプを行うなど静岡とのつながりがあったが、そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で慶大から入団。そこで当時ヘッドコーチだった秋山登が「静岡名産のミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承、その結果橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。
[編集] 1995年のオールスターファン投票
- 1995年、この年のオールスターゲームが横浜スタジアムで開催される事になり、ゲームを盛り上げるために当時の球団社長らが率先してファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。だが、これが大量の「組織票」を生む結果となってしまい、横浜からは佐々木主浩・駒田徳広・ロバート・ローズ・佐伯貴弘・グレン・ブラッグス・畠山準の6人が選出されたのに対して巨人・阪神の両人気球団からは1人も選ばれず、批判の的となった(他の3名はヤクルトの古田敦也と広島の江藤智、野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫や鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため当人たちも困惑気味であった。
- なお、試合では普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球するという珍しい光景が見られた。
[編集] プロ野球脱税事件と緊急補強
- プロ野球脱税事件も参照
- 1997年、プロ野球選手による脱税が発覚し、横浜からは波留敏夫、万永貴司、川崎義文、米正秀の4名が関わっている事が分かった。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで近鉄から中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホゼ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。また、波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤監督によりぶっつけ本番でスタメン復帰する。波留は復帰当初こそノー調整の状態からなかなか結果を残せなかったが、その後調子を取り戻し7月には月間MVPに輝くなど、奮起した。
[編集] 史上初3度のサイクル安打
- 日本プロ野球でサイクルヒットを複数回達成した選手は藤村富美男、松永浩美、ロバート・ローズの3人しかいない。藤村、松永は2度達成して現役を退いた。
- ローズはこれを3回達成した。1995年5月2日の中日戦で単打、2連続二塁打、本塁打、三塁打の順で、1997年4月29日のヤクルト戦で本塁打、二塁打、2連続単打、三塁打の順で達成した。3度目は1999年6月30日の広島戦。二塁打、(四球)、単打、三塁打、そして本塁打の順で安打を放ち、日本新記録となる3度目のサイクル安打を決めた。
[編集] ルールに救われたAクラス
- 2001年からセ・リーグの順位決定方法が変更された。勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。
- その初年度の2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところが、この年は「勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定する」とリーグアグリーメントで決めていた。このため勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラスを死守した(ちなみにこの年、広島には18勝9敗と大きく勝ち越した)。
- 2005年は反対に69勝(70敗7分け)の横浜が3位、71勝(73敗2分け)のヤクルトが4位。勝ち数で2上回るヤクルトを勝率で上回る横浜が3位になった。横浜の勝率.496がヤクルトの.493を上回ったためだ。実は、2001年の「勝ち数優先で順位決定」はその年限りで撤廃されていたからだ。
- 2001年のシーズン順位表はファンに不評だった。勝率でヤクルトが独走しながら、勝利数で上回る巨人が首位になっていることが「分かりづらい」と批判を浴びたのだ。リーグはわずか1年で「勝率優先」に戻した。
- 横浜はこうして二度までもルール変更の恩恵で3位Aクラスを確保することができた。
- 横浜の順位で2001年と2005年はともにAクラスの3位であるが、2001年は勝率順では4位、2005年は勝利数順では4位なので「2005年の横浜は4年ぶりのAクラス入りはおかしく、5年ぶりのAクラス入りだ。」とか「2005年の横浜の4年ぶりのAクラス入りはおかしすぎる。」とか「2005年の横浜の4年ぶりのAクラス入りは決してふさわしくない。」とか「2001年と2005年の横浜の3位を比べてみるとやはり別物だ。」などという声が少なくない。
[編集] 筆頭株主交代
- 2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主であったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBもこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫、最終的に第3位株主のTBS (東京放送)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつであったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断によって野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは必要なしとされた。
- それまでの球団の身売りは球団名からユニフォームまで一新されるケースばかりだったが、横浜のケースは球団名もユニフォームもそのまま残された。(変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけ)横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
- 2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入し筆頭株主となった。楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再び浮上した。同年11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、協約問題は未だに解決したとはいえない状態だ。両社が保有する2チームは2006年セ・パ交流戦開幕カードになった。しかし、TBSが持ち株会社移行を検討している模様で、これは楽天の影響を少なくするための対応であり、今後の動向に注目である。
[編集] キーワード
[編集] 横浜大洋銀行
- 他球団のファンが大洋や大洋ファンに対して揶揄する意味で用いた。また、大洋ファンも自嘲の意味で用いることがあった。長年低迷し続け、毎年のように他球団に貯金を配給し続けてきた結果、いつしかこのような不名誉な呼称がつけられることになってしまった(河合じゅんじのかっとばせ!キヨハラくんでもネタにされたことがある)。また、球団名が横浜ベイスターズになった今でも、優勝前後の時期を除けば「横浜銀行」として呼ばれ続けているのが現状である。そのため、野球ファンの中には実際に横浜銀行がベイスターズの親会社だと思い込んでいる人もいるほどである。ちなみに、実在の地方銀行である横浜銀行はベイスターズの株主ではなく、また地方銀行の中でも1~2を争う規模の大手地銀であり決して弱小などということはない。
[編集] スーパーカートリオ
- 高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、当初は「スポーツカートリオ」と命名された。しかし、当時解説者だった長嶋茂雄が「スーパーカートリオ」と言い間違え、それがマスコミでも広まる。球団側も積極的に修正しなかったため、結果としてこの名が定着した。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。
[編集] マシンガン打線
- 詳細はマシンガン打線を参照
- ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘(中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。
[編集] 横浜ドーム
[編集] クアトロK
[編集] 関連項目
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- 1960年の日本シリーズ
- 1998年の日本シリーズ
- 横浜熱闘倶楽部
- 横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ
- ササキ様に願いを
- 神奈川新聞
- テレビ神奈川
- ベイスターズフィーバー
- YOKOHAMAベイスターズナイター
- 佐藤藍子
- 国分太一
- 玉置宏
- 今井翼
- diana(球団の公式チアリーディングチーム)
- 産業能率大学
- みのもんた
[編集] 外部リンク
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