安達氏
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安達氏(あだちうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。藤原氏魚名流を称する。
[編集] 系譜
小田野三郎兼広(称藤原魚名流) - 安達藤九郎盛長(安達盛長) - 秋田城介景盛(安達景盛) - 秋田城介義景(安達義景) - 陸奥守秋田城介泰盛(安達泰盛) - 秋田城介宗景(安達宗景)と家督相続された。
[編集] 経歴
盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝に仕え、鎌倉幕府の樹立に尽力した。盛長の父は『尊卑分脈』魚名公孫によれば、小野田三郎兼広であるが、新訂増補国史大系の底本である、前田家所蔵林家訂正折本によれば、小野田三郎兼盛とある。盛長は、『尊卑分脈』魚名公孫によれば、足立六郎、小野田藤九郎と称している。盛長以来、鎌倉中の甘縄に屋地を与えられ邸を構えた。その子・景盛は、『尊卑分脈』魚名公孫によると、右衛門尉、出羽権守、秋田城介とあるが、出羽権守補任は確認できず、鎌倉末期の成立にかかるかと考えられる「安達系図」によれば、左衛門尉、秋田城介とあり、『尊卑分脈』魚名公孫のいう右衛門尉と食い違う。宝治元年(1247年)の宝治合戦で、景盛の娘松下禅尼の子である5代執権北条時頼と組んで、有力御家人三浦氏を排斥し、大きな打撃を与えた。ついで、その子・泰盛は北条氏以外では最有力の御家人の一人となり、元寇に際して越訴奉行、恩賞奉行を務めた。蒙古襲来絵詞で、肥後国御家人竹崎季長が恩賞を求める訴えを聴く場面は、鎌倉・甘縄の安達邸を描いたものである。弘安徳政とよばれる幕府の政策は彼が主導したといわれる。北条得宗家に仕える御内人の代表である内管領の平頼綱と権勢を争い、北条時宗の死後、弘安8年(1285年)の霜月騒動で、頼綱の讒言により、泰盛の養女(実妹)の覚山尼の子である9代執権北条貞時に討たれた。一族の多くが殺害されたが、頼綱が平禅門の乱で貞時に滅ぼされた後、泰盛の弟顕盛の孫にあたる安達時顕が秋田城介に補任され、鎌倉時代の末まで命脈を保った。