宮脇健
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮脇健(みやわき けん、本名・宮脇康之(みやわき やすゆき)、1961年6月13日 - )は東京都出身の俳優。子役時代は「ケンちゃん」としてお茶の間の人気者だった。
目次 |
[編集] 経歴
- 1964年 、山田洋次監督の映画『運がよけりゃ』で芸能界デビュー。
- 1966年 、テレビドラマ『チャコねえちゃん』(四方晴美主演)に出演。以後1976年の『フルーツケンちゃん』までケンちゃんシリーズに出演。しかし、テレビでの活躍とは裏腹に家庭の崩壊、兄の自殺未遂、そして保証人になったことによる多額の借金、にっかつロマンポルノへの出演など苦難に満ちた人生を送った。
- 1980年 、三原順子との交際が芸能誌に報じられる。
- 1996年に結婚。
- 2004年1月、自叙伝『ケンちゃんの101回信じてよかった』(講談社)を発表。現在は2001年から始めた還元水生成器ビジネスで成功を収め、講演活動で全国をまわる傍ら、宮脇健の名で芸能活動も行っている。
[編集] 出演作品
[編集] テレビドラマ
- 『チャコねえちゃん』(1967年4月6日~1968年3月28日放送)
- 『チャコとケンちゃん』(1968年4月4日~1969年3月27日放送・全52話)
ケンちゃんシリーズ
- 『ジャンケンケンちゃん』(1969年4月3日~1970年2月26日放送)
- 『ケンちゃんトコちゃん』(1970年3月5日~1971年3月4日放送)
- 『すし屋のケンちゃん』(1971年3月11日~1972年3月2日放送・全52話)
- 『ケーキ屋ケンちゃん』(1972年3月9日~1973年3月1日放送・全52話)
- 『まんまる四角』(京マチ子主演 1973年1.5~6.29 全26回)
- 『おもちゃ屋ケンちゃん』(1973年3月8日~1974年2月28日放送)
- 『ケンにいちゃん』(1974年3月7日~1975年2月27日放送・全52話)
- 『おそば屋ケンちゃん』(1975年3月6日~1976年2月26日放送・全52話)
- 『フルーツケンちゃん』(1976年3月4日~1977年2月24日放送・全52話)
- 『刑事犬カール』(1977年9月12日~1978年6月5日放送)(以上東京放送)
- 『ナッキーはつむじ風』(1978年10月11日~1980年3月12日放送、東京放送)
- 『翔んだカップル』(1979年12月、1980年10月3日~1981年4月10日放送、フジテレビ)
- 『ときめき十字星』(1980年10月6日~1981年3月3日放送、東京12チャンネル)
- 『愛LOVEナッキー』(1980年3月19日~1980年10月29日放送、東京放送)
- 『GOGO! チアガール』(1980年11月5日~1981年10月21日放送、東京放送)
[編集] 映画
- 『チャコとケンちゃん』(1969年3月18日公開、東映)
- 『おもちゃ屋ケンちゃん よそではいい子』(1973年8月1日公開、東映)
- 『お嫁にゆきます』(1978年7月22日公開、東宝)
- 『大恐竜時代』(アニメ) (1979年10月7日公開、日本テレビ)
- 『(本)噂のストリッパー』(1982年9月15日公開、日活)
- 『銀玉マサやん』(1992年12月12日公開、竜企画)
[編集] オリジナルビデオ
- 『銀玉マサやん 琉球パチンコ決戦』(1993年9月17日発売、ポニーキャニオン)
- 『Zero WOMAN 危ない遊戯(ゲーム)』(1998年5月1日発売、マグザム)
- 『闇の天使 DREAM ANGEL』(2001年発売)
[編集] テレビ番組
- 『ビバ!フィッシング』(司会<-- 今のところ放送時期詳細不明 -->、東京12チャンネル)
- 『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(出場者、日本テレビ)
[編集] 著書
- 『ケンちゃんの101回信じてよかった』 - ISBN 406212226X
[編集] エピソード
[編集] こぼれ話
自叙伝で宮脇は次のように述べている。
「ドラマの中では、宮脇康之であることは許されなかった。ケンちゃんにならなければならなかった。そうして、ケンちゃんは、必ず半ズボンを穿いていなければならなかった。6年生にもなったら、半ズボンがたまらなく嫌になり、半ズボンをやめさせてくれなければ役を下りるとプロデューサーに申し入れた。プロデューサーは申し入れを聞き入れてくれたが、その代わりケンちゃん役は下ろされ、たまに登場するだけの中学生のお兄さん役に回された。」
当時、子どもの象徴としていかに大人が小学生に半ズボンを押し付けていたかをよく物語る逸話だが、半ズボン文化の広告塔がこれでは、確かに半ズボン文化の先は思いやられたと言うものだろう。ここでいう「半ズボン」や「ケンちゃん」は、過剰なまでのよい子の象徴として忌避したのだろう。
なお、このエピソードは必ずしも事実とは一致しない。宮脇康之は中学校卒業までケンちゃんを演じていたからである。無論中学生で、実質的な主役は弟役らとなっていたが。
恐らく、この自叙伝を書いたとき、それほどケンちゃん役を演じていたことを否定したかったのであろう。後年の自叙伝「ケンちゃんの101回信じてよかった」では、冬に夏の海水浴シーンを演じさせられることなどの苦労は書かれていたが、一応ある程度の評価は下し、事実に近い(あるいは忠実な)エピソードが書かれている。
[編集] 10代・青年期の苦悩
超人気の子役となったが故に、小学生の時点で既に生身の子供としては過大な心理的負担があったと思われる。中学生になると、このことで不良グループに脅されることなどもあり、加えて過度の家庭不安もあった。加えて多大なギャラ(「Dのゲキジョー~運命のジャッジ~」出演時の本人談では、ピーク時には年収6000万円ほどあった)故に金銭感覚が麻痺していたことなどが、宮脇の俳優としての成長を阻んだと考えられる。
「ケンちゃんの101回信じてよかった」では、自身が大人の俳優となれなかった主因を、高校生のとき俳優になるための勉強を怠り大金を使って遊んでいたためと、自らの責任としている。しかし、一方では1980年代におけるTBSなどの扱いに関する不満(1982年以降、テレビ局に行っても仕事の話をしようともしなかったこと)も正直に述べている。
ケンちゃん役を降板した後3年ほどは大いに仕事があった。しかし、その後は仕事はほとんどなくなった。原因の一つは三原じゅん子との熱愛疑惑とされる(自叙伝「ケンちゃんの101回信じてよかった」より)。しかしこれについては20年後いつみても波瀾万丈の三原じゅん子の回で、三原本人の口から「熱愛報道は宮脇さんの事務所の意向ではなかったかと思います」と踏み込んだ発言がされている(この番組は芸能人の自叙伝的番組であり、個々のスキャンダルに本人がここまで言及するのは異例)。
彼を子役・青年役として使ったテレビ局や製作会社・芸能事務所(平たく言えば周囲の大人たち)に、宮脇康之を俳優として育て上げる責任感が欠如していたと考えられる。自らの意思でなくごく幼い時に子役として人気となったものは、当面俳優としてしか生きられないはずである。もしその責任感があれば、彼はその後人気俳優となってTBSなどに恩返ししたかもしれないのだが。
俳優としての仕事がなくなってからは、いくつか仕事を転々としている。一時期は、SMショーに責められ役で出演し、客の前で女王様役の女性に鞭や蝋燭で責められ、客に笑われていたという。(ABCテレビ 驚きももの木20世紀より)