宮部長房
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宮部 長房(みやべ ながふさ、天正9年(1581年) - 寛永11年(1634年))は、安土桃山時代の武将・大名。宮部継潤の嫡男(養子とも)。宮部長邑の父。諱は長煕(ながひろ)、定行とも。従五位下。兵部少輔。
[編集] 経歴
豊臣秀吉に仕え信任を受け、1586年には豊臣姓を与えられた。朝鮮出兵にも参加したが、彼の陣で饗応を受けた加藤光泰がその直後に吐血して急死するという事件もおきている。慶長元年(1596年)、父の隠居により家督を継ぐ。
秀吉と継潤の没後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは最初は東軍に与したが、後に西軍に寝返り、伏見城の戦い、大津城の戦いに参加した。このため戦後、鳥取5万石の所領を没収されて、その身柄は石川貞清らとともに南部利直に預けられた。
晩年の寛永7年(1630年)に、寝返り行為を行ったのは、もと宮部氏の家臣であった田中吉政にだまされてしまったためであるとの文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことで真偽は定かにはならず、沙汰やみとなってしまった。現在も真相は不明なままである。
寛永11年(1634年)盛岡で没した。子孫は多賀姓に改め南部氏の家臣として存続し、明治維新後に宮部姓に復している。
[編集] 小説
- 永井路子『関ヶ原別記』