富士講
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富士講(ふじこう)は、富士山とそこに住まう神への信仰を行うための集団である。浅間講ともよばれる。広義には富士信仰に基づく講集団一般を指し、狭義には江戸を中心とした関東で流行したある富士信仰の一派によるものを言う。
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[編集] 歴史
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏(天文10年(1541)-正保3年(1646)。後世、長谷川角行・藤原武邦とも)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期以降、村上光清や食行身禄(寛文11年(1671)-享保18年(1733))によって発展した。身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。
一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田は北口本宮冨士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。
明治以後、富士講の一派不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教など、その一部が教派神道と化した。
また、明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退した。平成18年現在 、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。
[編集] 活動
富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成っている。オガミにおいて、彼らは勤行教典「オツタエ(お伝え)」を読み、「オガミダンス(拝み箪笥)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて「オタキアゲ(お焚き上げ)」をする。また信仰の拠りどころとして富士塚という、石や土を盛って富士山の神を祀った塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田(東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている。富士詣は彼らの衰退とともにほとんど行われなくなったが、現在でも彼らを富士山で見ることができる。
上に述べたものとは別に、修験道に由来する富士信仰の講集団があり、彼らも富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上で述べたようなものと大きく異なり、富士垢離とよばれる初夏に水辺で行われる水行を特徴とする。また、富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる。
[編集] 八海めぐり
富士講では、富士登山の際に、富士周辺の霊地を巡ることになっている。特に「八海」と呼ばれる湖や池沼をめぐり水行(水垢離)を行うことは重要な修行とされた。八海には富士山周辺の「内八海」・「元(小)八海」(現忍野八海)と関東~近畿地方に広がる「外八海」とがある。
[編集] 内八海
- 泉水湖(せんづのうみ)泉端 富士吉田市
- 山中湖 山中湖村
- 明見湖(あすみのうみ) 富士吉田市
- 河口湖 富士河口湖町
- 西湖 富士河口湖町
- 精進湖 富士河口湖町
- 本栖湖 富士河口湖町
- 志比礼湖(しびれのうみ)四尾連湖 市川三郷町
- 昔は泉水湖の替わりに須戸湖(沼津市・富士市)を八海に数えていた。須戸湖(須津湖)は浮島沼とも呼ばれ、須戸湖は江戸時代から陸化され、現在では住宅地が広がっている。
[編集] 外八海
- 二見海(二見浦) 三重県
- 竹生島(琵琶湖) 滋賀県
- 諏訪湖 長野県
- 榛名湖 群馬県
- 日光湖(中禅寺湖) 栃木県
- 佐倉湖(桜ヶ池 (御前崎市)) 静岡県
- 鹿島湖(霞ヶ浦) 茨城県
- 箱根湖(芦ノ湖) 神奈川県
[編集] 参考文献
- 岩科小一郎 『富士講の歴史』(名著出版、1983)
- 井野辺茂雄 『富士の信仰』(『富士の研究』3、古今書院、1928。名著出版によって1973と1983に復刻)
- 平野栄次 『富士浅間信仰』(雄山閣、1987)