富田高定
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富田 高定(とみた たかさだ)は、安土桃山時代の武将。はじめ豊臣秀次の重臣。秀次没後は加賀前田氏の家臣として仕えた。秀次の精鋭部隊と称された若江八人衆(または若江七人衆)の一人として数えられることもある。
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 慶長5年8月4日(1600年9月11日) | |||
別名 | 喜太郎(幼名)、蔵人(通称) | |||
氏族 | 富田氏 | |||
父母 | 父:富田信広 | |||
兄弟 | 兄:富田知信 |
富田信広の子として生まれる。秀次が三好康長の養子となった頃から、秀次の近侍として仕えた。天正18年(1590年)、伊勢において2,292石の知行を与えられる。しかし文禄4年(1595年)に秀次が豊臣秀吉の命で切腹すると(秀次事件)、京都西山に幽居した。しかしその将才を惜しまれて、前田利長に召し抱えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前田軍の侍大将として出陣したが、加賀大聖寺城の戦いで戦死した。