小林一茶
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小林一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)-文政10年11月19日(1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名・小林弥太郎。
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[編集] 経歴
信濃北部の北国街道柏原宿(現・長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生を受ける。3歳の時生母を失い、8歳で継母を迎える。継母に馴染めず江戸へ奉公に出、25歳のとき二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学ぶ。
29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。
50歳で再度故郷に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっている。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。2番目の妻を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか2ヶ月で離婚。3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。やたは一茶の死後産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、明治まで生き一茶の血脈を後世に伝えた。真田幸村研究の第一人者として知られる小林計一郎は、一茶の子孫である。
文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に合い母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日その土蔵の中で65歳の生涯を閉じた。
[編集] 作風
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が目を引く。
[編集] 代表句集
- おらが春
- 文化句帳 など