小笠原長恭
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小笠原 長恭(おがさわら ながゆき)は、遠江掛川藩の第3代藩主。のちに陸奥棚倉藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元文5年(1740年) | |||
死没 | 安永5年5月29日(1776年7月14日) | |||
改名 | 土丸(幼名) | |||
戒名 | 茲雲院殿本源崇徳 | |||
墓所 | 東京都文京区本駒込の竜光寺 | |||
官位 | 従五位下、佐渡守、能登守 | |||
藩 | 遠江掛川藩主→陸奥棚倉藩主 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原長庸、母:小笠原長煕の娘 | |||
妻 | 正室:小笠原忠基の養女(小笠原忠貞の娘) | |||
子 | 小笠原長堯、小笠原長富、小笠原長英 娘(板倉勝意室のち織田信浮室) |
元文5年(1740年)、掛川藩の第2代藩主・小笠原長庸の長男として生まれる。延享元年(1744年)に父が死去したため、家督を継いで掛川藩の第3代藩主となる。しかし若年の上、藩内において浜嶋庄兵衛と名乗る急ぎ盗めの盗賊による横行を取り締まることができなかったためとして、延享3年(1746年)9月25日、陸奥棚倉藩へ懲罰的な移封を幕府より命じられた。
寛延2年(1749年)2月、隣の天領において百姓が代官を殺害するという戸塚騒動が起こると、幕命により藩軍を送って鎮圧している。藩財政が苦しかったため、殖産興業政策を推進し、特に製陶を奨励したが、棚倉鹿の子焼は長恭が創始したものとされている。
安永5年(1776年)5月29日に死去。享年37。後を子の小笠原長堯が継いだ。
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