尼子長三郎
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尼子長三郎(あまこちょうさぶろう、文政元年(1818年) - 文久3年(1863年))は幕末の志士。家系は宇多源氏の血筋にて佐々木氏(京極氏)の一門たる尼子氏。代々、水戸藩士である。諱は久恒。仮名は長三郎。父は尼子津右衛門久道。母は内藤益利の女。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。位階は贈従五位。子に尼子久次郎がいる。
[編集] 家系
尼子氏は宇多天皇を祖とする宇多源氏の家系であり、佐々木氏の支流・京極氏の一族、重臣であった。佐々木高秀の次男・高久の代に尼子を称するようになった。尼子氏は永く京極氏の分家筋という地位から、京極家の重臣として重きをなし、京極氏の領地である北近江半国と出雲国のうち、尼子詮久が北近江半国、その弟・尼子持久が出雲国に住し京極家の領国支配を支えるようになった。 尼子氏の成長は持久の子、守護代尼子清定が山名氏の出雲国侵攻軍を撃退したことによる。これにより能美郡奉行職・美保関代官職を与えられ、これが、大きな軍事的・経済的基盤を形成する端緒となった。但し、あくまで清定は京極氏の守護代であり、その任を忠実に果たした。 しかし、清定の子、尼子経久が4代目として家督を継承すると、経久は出雲国内の荘園を横領したため、主君 主君・京極政経に追放される。経久は翌年、無頼の徒を率いてわずかな手勢で謀叛し、月山富田城を奪取、京極政経を追放して出雲一国を領国化した。この下克上に対して、当初は京極氏の残党が尼子氏に対抗したが、知略に優れる経久の敵ではなかった。経久の嫡男 尼子詮久が遠征中に国人 桜井氏を攻めている最中、陣中にて笛をふいていたところを矢で射殺されるという一大事も発生したが、経久の孫・尼子晴久が後継となった。尼子氏は経久の代に11カ国の領国支配を固め、孫・晴久に家督を譲る際には出雲守護職に補任され、ようやく守護を追放した守護代としての名分から脱することが出来た。しかし、晴久には経久ほどの才はなく、3万もの大軍で安芸国の国人 毛利氏を攻めるも、大内義隆軍を率いた陶晴賢と毛利氏の連合軍の前に敗れ、逃走。以降、尼子氏は勢力を弱めた。程なく晴久は病死、家督を継いだ子の尼子義久の代となると大内氏の所領をも吸収した毛利氏に攻められて滅亡。一族は毛利氏に下ったもの、浪人したものなど散り散りとなった。そのうちの一族が水戸徳川家に仕官し、代々水戸藩に仕えた。
[編集] 生涯
水戸藩士・尼子久道の子として生まれた長三郎は天保12年(1841年)、床机廻として藩に出仕した。弘化元年(1844年)に藩主・徳川斉昭が幕譴を受けて隠居を命ぜられると、宥免運動に奔走し、諸藩の志士と交わった。安政2年(1855年)に馬廻組となり、万延元年(1860年)には尼子家の家督を相続した。文久2年(1862年)3月に同僚の美濃部又五郎らとともに長州藩別邸において長州藩有志らと会い、水戸藩と長州藩が提携に奔走した。同3年2月、藩主・徳川慶篤が勅命により上洛すると、これに扈従して、孝明天皇の賀茂社行幸や石清水八幡宮への参拝にも随従した。同年4月に江戸に帰府し、6月には小姓頭取に昇任した。その後、公卿の間を奔走し、尊皇攘夷の実現を訴えたが、急死する。享年46。没後、従五位を贈位される。