山名時氏
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山名 時氏(やまな ときうじ、嘉元元年(1303年) - 建徳2年/応安4年3月28日(1371年4月14日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など。
[編集] 伝記
上野国の新田氏に属する下級武士の生まれで、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたと言われる。下野国の足利家の一族である上杉氏の血縁もあり新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、1333年の足利尊氏の挙兵、後醍醐天皇の建武の新政からの離反、1336年には宮方との湊川の戦いなどに参加。南北朝時代には、南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となる。
1350年、足利家において将軍尊氏の弟の足利直義と、足利家執事の高師直の対立が発展して観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う。51年に直義が死去すると、一時は将軍派に転身するが、出雲の守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、53年には幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らとともに足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。時氏は領国に撤退した後、将軍尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌54年12月には、斯波高経や桃井直常らと再び京を占領するが、撤退。
その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦う。幕府では67年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順する。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将であった。73歳で死去。