山鹿温泉鉄道
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山鹿温泉鉄道(やまがおんせんてつどう)は、かつて熊本県植木町の植木駅と同山鹿市の間を通っていた鉄道路線、およびその運営事業者である。
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[編集] 概要
当初の名称を鹿本鉄道(かもとてつどう)と称した。温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌の影響を受け、さらに山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設されたこともあって営業面では終始振るわなかった。このため競合バス会社の買収等の手段で山鹿~熊本間にバス路線を開設し、鉄道は貨物輸送に重点を置いて旅客輸送を減量するなどの手段で収支の安定化を図ったが、バス部門は戦時中の交通統合により九州産業交通への譲渡を余儀なくされた。
戦後の1950年(昭和25年)12月に中型気動車を導入し、鹿児島本線への乗り入れ運行を開始して熊本への直通を実現したが、1957年(昭和32年)に水害により植木~植木町間の築堤が崩壊し、直通運行が不可能になった。植木町~山鹿間は復旧したものの、植木~植木町間は復旧を断念し休止し、バス代行輸送とした。
このため熊本~山鹿間のバス路線に比し著しく利便性を欠いて鉄道の利用は低下、末期的な経営状態となったことから、1960年(昭和35年)に全区間が休止、のちに廃止された。
[編集] 路線データ
[編集] 運行形態
1953年6月15日当時
- 運行本数:日11往復(6時~21時台)、うち熊本発着4往復
- 所要時間:全線約45分(自社線内)
[編集] 歴史
- 1915年(大正4年)11月27日 鹿本軌道の名で会社設立。
- 1916年(大正5年)12月10日 軽便鉄道法に準拠し鹿本鉄道に社名変更。
- 1917年(大正6年)12月22日 植木~肥後豊田間が開業。
- 1918年(大正7年)12月26日 肥後豊田~宮原間が開業。
- 1921年(大正10年)12月1日 宮原~来民間が開業。
- 1923年(大正12年)12月31日 来民~山鹿間が開業。
- 1927年(昭和2年)12月23日 ガソリン動力併用認可。翌年より気動車を導入。
- 1928年(昭和3年)8月15日 肥後大本駅、肥後大道駅が開業。
- 1933年(昭和8年)7月24日 山鹿~熊本間のバス事業開始。
- 1943年(昭和18年)10月26日 バス事業を九州産業交通に譲渡。
- 1952年(昭和27年)6月4日 社名を山鹿温泉鉄道に改称。
- 1953年(昭和28年)6月26日 集中豪雨(熊本6.26大水害)により被害を受け、約4ヶ月間不通となる。
- 1955年(昭和30年)4月1日 一ツ木駅・舟島駅・伊知坊駅・奥永駅・白石駅が開業。
- 1957年(昭和32年)7月26日 集中豪雨により被害を受ける。植木~植木町間では築堤が崩壊し復旧不可能となり休止(植木町~山鹿間は約1ヶ月後に復旧)。
- 1960年(昭和35年)12月1日 全線休止。
- 1965年(昭和40年)2月4日 全線廃止。
なお、会社自体は鹿鉄交通という貸切バス事業者として存続している。
[編集] 駅一覧
駅名 (読み) |
累計キロ | 開業日 | 接続路線・備考 |
---|---|---|---|
植木 (うえき) |
0.0 | 1917年12月22日 | 日本国有鉄道:鹿児島本線 |
植木町 (うえきまち) |
2.1 | 1917年12月22日 | 旧駅名:長浦(ながうら) (1949年7月30日変更) |
一ツ木 (ひとつぎ) |
3.3 | 1955年4月1日 | |
今古閑 (いまこが) |
4.5 | 1955年4月1日 | |
山本橋 (やまもとばし) |
5.8 | 1917年12月22日 | |
今藤 (いまふじ) |
7.9 | 1928年8月 | 旧駅名:肥後大本(ひごおおもと) (1937年4月廃止) 1954年6月1日復活 |
肥後豊田 (ひごとよだ) |
9.0 | 1917年12月22日 | |
舟島 (ふなじま) |
9.8 | 1955年4月1日 | |
伊知坊 (いちぼう) |
10.5 | 1955年4月1日 | |
平島温泉 (ひらしまおんせん) |
10.9 | 1918年12月26日 | 旧駅名:平島(ひらしま) (1949年7月30日変更) |
山城 (やましろ) |
11.7 | 1955年4月1日 | |
宮原 (みやばる) |
12.9 | 1918年12月26日 | |
奥永 (おくなが) |
13.5 | 1955年4月1日 | |
分田 (ぶんだ) |
14.7 | 1921年12月1日 | |
来民 (くたみ) |
16.3 | 1921年12月1日 | |
肥後白石 (ひごしらいし) |
18.2 | 1955年4月1日 | |
肥後大道 (ひごだいどう) |
19.0 | 1928年8月 | 1937年4月廃止 1952年8月復活 |
山鹿 (やまが) |
20.3 | 1923年12月31日 |
[編集] 接続路線
[編集] 車両
当初は蒸気動力で蒸気機関車により運行されていたが、バスの台頭に対抗して合理化・列車増発のため気動車の導入を図り、1928年に丸山車輌と梅鉢鐵工所で合計3両のガソリンカーを新造した。丸山製の2両は片運転台で一方のみ進行する単端式であり、日本の気動車としては初めて独立した郵袋置場を設置した車両であった。また梅鉢製の1両は当時最先端の両側運転台車だったが、フリクション変速機による動力伝達等に欠陥があり、早期に改修された。
気動車導入により列車増発が図られたが、これら3両は何れも簡易な木造車なうえ、日本でもごく初期の気動車で未熟な欠陥も多く、数年間のうちに全体の老朽化が進行して長期の使用に耐えなくなった。同時期に旅客輸送はバス重視とする方針転換が為され、1934年12月には気動車列車が廃止されて旅客列車は蒸気機関車牽引列車4往復のみという大幅減量ダイヤとなった。不要となった気動車3両は1935年に佐賀電気軌道に売却処分、相前後して客車3両をも熊延鉄道や南薩鉄道に売却してまで経営立て直しを図った。1935年5月に当局からガソリン動力廃止認可を受けている。
戦後再び内燃動力併用認可を得て国鉄型の気動車1両を保有し、熊本乗り入れに充当した。続いて帝国車輌に当時のトレンドである正面二枚窓の「湘南型」スタイルを持つ大型の気動車を発注したが、この車両を導入しないうちに1953年の水害による大被害を受け、新車をキャンセルせねばならなくなった(注文流れの湘南型気動車は、有田鉄道と茨城交通に引き取られ、それぞれ有田鉄道キハ250と、茨城交通ケハ401となった)。
切羽詰まった山鹿温泉鉄道は、1955年に大阪市交通局から中古ボンネットバスの払い下げを受け、これを改造した単端式気動車2両を導入するという異様な挙に出た。このバスは元々戦後の車両不足を補うため、進駐軍から放出されたGMCウェポンキャリア(軍用トラック)のシャーシにバスボディを架装したという代物で、その車輪を鉄道用車輪に取り替えて文字通りの「レールバス」としたものである(実車の側面窓下には「レールバス」という表記がなされていた)。日本で自動車を一般旅客輸送用の気動車に改造した前例は、大正時代の試作車両や軽便鉄道などに少数例があったが、戦後では山鹿温泉鉄道がほぼ唯一である。末期の同社がいかに経営的に窮迫していたかを物語る事例と言えよう。
[編集] 廃線跡の現況
廃線跡は県に譲渡され、自転車道(熊本県道330号熊本山鹿自転車道線、愛称名「ゆうかファミリーロード」)として整備された。なお、駅舎は肥後豊田と終点の山鹿温泉を除いて全て撤去されている。
[編集] 関連項目
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