川口順子
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生年月日 | 昭和16年(1941年)1月14日 |
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出生地 | 東京都 |
出身校 | 東京大学教養学部卒 エール大学大学院経済学修士課程修了 |
学位・資格 | |
前職・院外役職(現在) | 通商産業省 サントリー株式会社常務取締役 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
外交防衛委員会委員 行政改革に関する特別委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
神奈川県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(無派閥) |
党役職(現在) | 政務調査会副会長(外交担当) 女性に関する特別委員会委員長 神奈川県参議院選挙区第三支部長 |
会館部屋番号 | 参・議員会館418号室 |
ウェブサイト | 川口よりこオフィシャルWebサイト |
川口 順子(かわぐち よりこ、1941年(昭和16年)1月14日 - )は、東京都出身の政治家。
通商産業省では、坂本春生などと共に女性官僚の草分けの一人として活躍した。在任中は語学の達人として知られていた。大臣官房審議官を最後に退職後は、サントリー常務を務めていたが、第2次森内閣で環境庁長官に就任。続く小泉内閣でも環境大臣を務めたが、国際会議などでの手腕が評価され、田中眞紀子の後任の外務大臣に任ぜられた。
前外相時代の混乱に終止符を打ち、外務省改革を進展させたことには一定の評価があり、手堅い実務能力を生かして日々の外交課題を着実に務め上げた。他方で在任中は一連の北朝鮮問題やイラク戦争、中韓との関係悪化などの困難な問題を常に抱え、国会に議席を持たない外務大臣としての限界をしばしば指摘された。
2004年に外務大臣を退任後、内閣総理大臣補佐官(外交担当)に就任。2005年(平成17年)10月23日投票の参議院議員神奈川県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、初当選した。
2004年5月、在上海総領事館員が中国側から外交機密などの情報提供を強要され自殺した当時の外務大臣(上海総領事館員自殺事件を参照)。しかし、この事件に関するコメントを一切発表していない。
目次 |
[編集] 略歴
- 1957年(昭和32年) アメリカ合衆国に1年留学(AFS4期生)
- 1961年(昭和36年)3月 筑波大学附属高等学校卒業
- 1965年(昭和40年)3月 東京大学教養学部教養学科卒業
- 1965年(昭和40年)4月 通商産業省入省
- 1972年(昭和47年)6月 イェール大学経済学部大学院修士
- 1990年(平成2年) 8月 在アメリカ合衆国日本大使館公使就任
- 1992年(平成4年) 6月 通商産業省大臣官房審議官(地球環境問題担当)
- 1993年(平成5年) 7月 退官 9月 サントリー常務取締役就任
- 2000年(平成12年)7月 サントリーを退社 環境庁長官就任(第2次森内閣)
- 2001年(平成13年)1月 環境大臣就任
- 2002年(平成14年)2月 外務大臣就任
- 2004年(平成16年)9月 内閣総理大臣補佐官(外交担当)就任
- 2005年(平成17年)9月 内閣総理大臣補佐官を辞任
- 2005年(平成17年)10月 参院神奈川補選当選
[編集] その他
- 信条:耳順
- 趣味:読書、音楽鑑賞、スキー、俳句
- 旧姓土田、姉の白井尭子は、元千葉県立衛生短期大学教授。メアリ・ウルストンクラフトなど女性解放論の研究者。
[編集] 著作
- 『涙は女の武器じゃない-より子流「しなやか激闘録」-』小学館、2006年6月
- 自伝的エッセイ。
- 『国連の将来と日本の役割-青山学院・関西学院合同シンポジウム-』関西学院大学出版会、2005年4月。(共著) 佐藤行雄、村田俊一、安井至、弓削昭子、ルクツォ・ヨゼフ・ムラパ。
[編集] 外部リンク
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