川端達夫
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川端 達夫(かわばた たつお、昭和20年(1945年)1月24日 - )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(7期)。滋賀県近江八幡市出身。
生年月日 | 昭和20年(1945年)1月24日 |
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出生地 | 滋賀県近江八幡市 |
出身校 | 京都大学工学部卒業 京都大学大学院工学研究科修了 |
学位・資格 | 工学修士 |
前職・院外役職(現在) | 会社員 労働組合役員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・懲罰委員会委員 衆・政治倫理審査会筆頭理事 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
比例近畿ブロック(滋賀1区) |
当選回数 | 7回 |
所属党派(現在) | 民主党(川端グループ) |
党役職(現在) | 副代表 滋賀県総支部連合会代表 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館421号室 |
ウェブサイト | 川ばた達夫 ウェッブサイト |
目次 |
[編集] 概要
- 滋賀県立彦根東高等学校、京都大学工学部卒業、同大学院修了。東レに入社し開発研究に携わる。
- 1986年、民社党から衆議院議員に初当選。1994年新進党に参加。1995年1月、山花貞夫の新党構想に共鳴して新進党を離党するも、断念。同年10月、復党した。
- 新進党解党後は新党友愛を経て、民主党に参加。国会対策委員長、組織委員長、次の内閣総務大臣など要職を歴任した。
- 2004年5月、岡田克也新代表選出に伴い、国対委員長に再任。国対委員長時代には、「質問主意書の増加によって官僚の残業が増えている」等として与党が質問主意書の提出制限を目論んだことに対し、憲法で保障された国政調査権の冒涜であると猛反発し、「国民の負託を受けてわれわれが要求することに、(官僚が)徹夜してでもしっかりと対応するのは当然だ」などの強硬な発言で、猛然と与党と論戦した。
- 2004年9月にはこうした手腕を評価され、藤井裕久幹事長の代表代行昇格に伴い、幹事長に昇格した。
- 2005年、第44回衆議院議員総選挙で自民党新人の上野賢一郎に小選挙区(滋賀1区)で敗れ、比例近畿ブロックで復活当選した。現職幹事長の小選挙区での落選は、同選挙における党の惨敗を象徴する出来事の1つだった。選挙後、党敗北を受けて岡田代表とともに川端ら執行部は総辞職した。岡田の後任を決める代表選挙では前原誠司に投票したことを明らかにし、常任幹事会議長に就任した。
- 2006年2月、「堀江メール問題」の責任を取って国対委員長を辞任した野田佳彦の後任を打診されるが固辞し、新たに国対委員長に就任した渡部恒三の要請で国対委員長代理を兼務した。渡部のメディアでの発言から、渡部からの信頼は厚いようである。
- 前原代表辞任に伴う代表選挙ではその動向が注目され、直前まで態度を明らかにしなかったが、最終的には川端グループをまとめて小沢一郎支持を表明、小沢体制でも常任幹事会議長に再任された。
- 民社党系議員のニューリーダーと目されながらも、派閥活動に携わることはなかったが、米沢隆(元民社党委員長)、中野寛成(元民社党書記長)らが落選、民社党系の政治団体である民社協会の理事長に就任した。
- 2006年7月の滋賀県知事選挙では民主党県連内で國松善次と嘉田由紀子のどちらを推薦するかで意見が分かれ、県連代表として最終判断を一任された川端は國松推薦を決定した。しかし、新幹線新駅凍結を公約に掲げる嘉田が当選、民主党支持者からも多くの票が嘉田に流れた。小沢代表が知事選での自公との「相乗り禁止」を決定したにもかかわらず「例外」として國松推薦を決定した川端の責任を問う声は高い。選挙後、自民に先駆けて嘉田新知事の新幹線新駅凍結支持を表明した。
- 現在、民主党副代表(2006年9月~)
[編集] その他
- 阪神タイガースのファンで、「阪神タイガースを応援する議員の会」の23人の発起人の一人。「阪神タイガースが優勝したら国会で六甲颪を歌う」が同会の活動方針。現在の同会の動向は不明。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 川ばた達夫 ウェッブサイト(公式サイト)
- 民主党滋賀県総支部連合会ホームページ
- 民社協会