市河米庵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
市河米庵(いちかわ べいあん 安永8年9月16日(1779年) - 安政5年7月18日(1858年8月26日))江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。
名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎、百筆斎、亦顛道人、小山林堂、金洞山人、金羽山人。通称は小左衛門。
目次 |
[編集] 略歴
漢詩人の市河寛斎の長子。安永8年(1779年)、己亥九月、亥の日、亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。
父 寛斎や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕しその筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んだ。
隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂候西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張徳川、津藤堂、徳山毛利、鯖江江間部などの大名にも指南を行った。
書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777-1843)、京都の貫名海屋(1778-1863)とともに幕末の三筆に数えられる。 文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。
文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。
継子に恵まれず恭齋(きょうさい、1796 - 1833)、遂庵(いちかわ すいあん、1804 - 1884)を養子に迎えたが、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838 - 1907)を授かる。1858年歿、享年80。日暮里本行寺に墓がある。
渡辺崋山が米庵の肖像画「市河米庵像」[1](京都国立博物館 収蔵、重要文化財)を描いている。
[編集] 門弟
- 沢村墨庵
- 関藍梁
- 山内香雪
- 田口霞村
- 川上修斎
[編集] 著述
- 『米庵墨談』
- 『米庵蔵筆譜』
- 『毛信遊草』
- 『西遊小草』
- 『米庵百記』
- 『米庵石律』
- 『楷行薈編』
- 『小山林堂文房図録』
[編集] 蔵書印
- 河氏珍賞
- 米庵所蔵
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 市川三陽著 『市河米庵伝』(「東洋文化」昭和14年3月)