平戸城
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復興天守 | |
通称 |
亀岡城、亀甲城、日之嶽城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
3重3階 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
現存櫓・門・石垣 |
位置 |
平戸城(ひらどじょう)は日本の城。所在地は長崎県平戸市岩の上町。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。
目次 |
[編集] 概要
平戸城は平戸島にあり平戸市街の東部に位置する。対岸の九州本島を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。
三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である。
最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭である。
明治時代に廃城となった。現在の城跡は亀岡公園となり市民グラウンドなどの施設があり、また、亀岡神社がある。狸櫓と北虎口門が現存し、天守・見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が復興されている。
なお、現存の狸櫓には、次の伝説が残っている。櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板を全て剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったと言う。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになった。
[編集] 沿革
下松浦党の棟梁である松浦鎮信(法印)は豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。文禄・慶長の役の後、現在の城地である日之嶽に慶長4年(1599年)最初の築城を開始した。しかし、完成も間近となった慶長12年(1607年)自ら火を放ち城を破却した。理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。
鎮信は平戸港を挟んだ北側(平戸市鏡川町)に「中の館」と呼ばれる居館を構え平戸藩の藩庁とした。ここには明治時代に松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦資料博物館となっている。
元禄15年(1702年)4代藩主鎮信(天祥)は幕府に築城を願い出て、翌年の元禄16年(1703年)許可された。江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例である。これは徳川家との姻戚関係と東シナ海警備の必要性によるものと言われる。
鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子であり、素行とともに全国を歩き資料集めを行い山鹿流軍学に基づく縄張りがなされた。素行を平戸に迎えたいと希望したが叶わず、実子の高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。実際の築城指導は義昌によってなされた。
5代藩主棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年、丘陵上の城は解体された。昭和37年(1962年)、天守・見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が復元された。天守内は松浦党などの資料館となっており国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示されている。
[編集] 関連項目
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