広島城
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広島城 | |
通称 |
鯉城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
望楼型 |
築城主 |
毛利輝元 |
築城年 |
1589年 |
主な改修者 |
福島正則 |
主な城主 |
毛利氏、浅野氏 |
廃城年 |
1874年 |
遺構 |
石垣、堀、復元天守・櫓・門 |
位置 |
広島城(ひろしまじょう)は、広島県広島市にある城郭。鯉城(りじょう)ともいう。国指定史跡。
目次 |
[編集] 構造
軟弱な三角州地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。
福島正則が無届け修築をとがめられた際、二段にしてあった本丸の上段石垣を破却した。これは現在でも確認できる。
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
1589年(天正17)に毛利氏の当主・毛利輝元が、交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に築城を開始した。
それまでの毛利氏の居城・吉田郡山城は何度も敵勢を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適した位置になった。しかし、天正末年になって天下が安定するようになると、当時中国地方9ヶ国120万石の太守となった毛利氏には政務所としても手狭なものとなり始めた。また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ出ようという意思もあった。(一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の先代・毛利元就のころから現在の広島の平野部への築城構想はあったという)。
築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となった。城の構造は大坂城を参考とし、近世城郭として築城された。縄張りは聚楽第を範を取っていると言われる。この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮出兵の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。大天守の南と東に2つ小天守を配置する構造であった。1599年(慶長5)に完成。完成当初は大阪城に匹敵するような規模の城だったと言われるが、福島正則の改築以前にどのような姿であったかは詳しくわかっていない。
[編集] 江戸時代
関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長二国(長州藩)に減封され、広島城は福島正則の居城となった。福島正則の時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を、城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したと言われ(一説には毛利輝元時代)、町人町が拡大した。
しかし、洪水による被害の修復を幕府から無届け改築ととがめられ、1619年(元和5年)に改易され、信濃国川中島へ転封された。代わって紀伊国和歌山から浅野長晟が入城し、その後は、明治時代に至るまで12代約250年間にわたって浅野氏の居城であった。なお、忠臣蔵の赤穂藩浅野内匠頭は分家にあたる。
藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1km四方のかなり広大な城であった。1911年([明治]44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880m)あった東側の外堀にちなむ。また市内の庭園「縮景園」は、元々は城内だった。外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に走っており、現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。北端は現在の城北通りであり、外堀の水は三篠橋付近の本川(旧太田川)から引いていた。
[編集] 明治時代~第二次世界大戦終戦
広島城の敷地内に、全国六鎮台の一つが設置され広島は軍都として発展していくこととなった。歩兵第十一連隊や広島陸軍幼年学校などが城内に設置された。
1894年の日清戦争の時には、戦場から遠い東京から大本営が城内に移され、1894年9月15日から1895年4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。これに伴い、帝国議会も城内で召集された。戦争が終わるまでの短期間、事実上広島市が日本の首都であったことになる。また城内の大本営は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。 広島に大本営が置かれた理由として、山陽鉄道(現在の山陽本線)が1894年6月に広島まで延伸され、また宇品港(現在の広島港)が1889年に大型船舶が停泊できる様に整備された事が最大の理由である。
広島大本営跡 2004年8月21日撮影 |
歩兵第十一連隊跡 2004年8月21日撮影 |
広島陸軍幼年学校跡 2004年8月21日撮影 |
天守などは1931年(昭和6年)に国宝に指定されたが、1945年 (昭和20年)8月6日午前8時15分原子爆弾(原爆)の強烈な爆風と爆圧、熱線によって、建物は一瞬にして全て吹き飛び、全焼してしまった。天守は原爆投下直後の強烈な熱線に耐えたが、直後の爆風によって倒壊してしまい、大量の建材が天守台に散らかっていたと言う。建材のその後に関しては定かではない(いたしかたないことであるが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある)。また、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換したとも言う(公式文書には、この事は一切記されていない)。1953年(昭和28年)3月31日に国の史跡に指定された。
[編集] 現在の広島城址
現在、広島城の敷地内には以下の施設がある。
- 復元天守
- 1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、鉄筋造で外観復元された。内部は広島城資料館となっている。
- 二の丸平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門
- 1994年(平成6年)に木造で復元された。
広島城二の丸 2004年8月18日撮影
- 広島城の敷地内に中国放送(JNN系列)の本社がある。
中国放送 2004年8月18日撮影
- 池田勇人元首相銅像
- 広島県を代表する政治家である。
池田勇人銅像 2006年11月3日撮影
- 広島市中央バレーボール場
[編集] 鯉城
広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われ、ここから鯉城の別名がついた。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。
またこの別名から「広島東洋カープ」のチーム名が付けられた。カープは英語で鯉の意味である。
[編集] アクセス
[編集] 鉄道・新交通システム
- 山陽本線・呉線・可部線・芸備線広島駅から城南通りを通り、徒歩で20分、タクシーで10分
- 広島電鉄宇品線・宮島線・江波線紙屋町東駅・紙屋町西駅から徒歩で15分
- アストラムライン県庁前駅から北へ徒歩約15分・城北駅から南回りもしくは東回りで徒歩約15分
[編集] 車・バス
- 紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・広島バスセンターから北へ徒歩約15分
- 駐車場
- 最寄りの広島中央駐車場(地下)か基町パーキング(地下)に駐車することは出来る。駐車場から北へ徒歩約10分。
- それ以外にも広島市内には100円パーキングがあるので駐車場所は沢山ある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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