後藤治
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後藤 治(ごとう おさむ、1948年11月27日 - )はレーシングカーエンジニア。ホンダのF1プロジェクトリーダーを務めた後、マクラーレン・フェラーリなど名門チームを渡り歩いた。その後ザウバーのエンジン開発責任者を長年に渡り務めたが、ザウバーがBMWに買収されたことに伴い独立し、現在はフリー。
なお、特に海外のマスコミにおいて、元F1ドライバーのジャン・アレジの妻である後藤久美子(ゴクミ)と血縁関係があるかのように誤って報道されるケースが多く見られるが、二人の間に全く血縁関係はない。(アレジがフェラーリに在籍していた頃と時を同じくして後藤と関係を持つようになった為、その関係でゴクミと後藤もお互い顔見知りであることが誤解されたものと思われる)
[編集] 略歴
1969年に東京都立航空工業高等専門学校を卒業してホンダに入社。ホンダではCVCCエンジンやシティ用のターボエンジンの開発等に関わった後、1984年よりF1エンジンのプロジェクトチームに参加する。
1988年には前任の桜井淑敏からF1エンジンのプロジェクトリーダーを受け継ぎ、以後1990年までホンダのF1プロジェクトリーダーとして1.5リッターターボ・V6のRA168E、3.5リッターNA・V10のRA109E・RA100Eを開発。主にマクラーレンに供給されたこれらのエンジンは(1988年にはロータスにも供給)アイルトン・セナやアラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーらのドライブで圧倒的な強さを発揮し、マクラーレン・ホンダはこの間コンストラクターズ・ドライバーズの両タイトルを独占した。後藤もフジテレビのF1中継において、古舘伊知郎から「ホンダの戦う係長」というニックネームを付けられたことで一気に有名になる。
1990年一杯でホンダのF1プロジェクトを外れると一旦は市販車用エンジンの開発部門に異動するが、間もなくマクラーレンの総帥であるロン・デニスに請われる形でホンダを退社し、1991年の半ばにマクラーレンに移籍。マクラーレンではロン・デニスに次ぐナンバー2のポジションに当たる「エグゼクティブ・エンジニア」として、主にチームマネジメントの効率化などに取り組んだ。
1994年には今度はフェラーリに移籍。当時フェラーリでは伝統のV12エンジンを捨てて新たにV10エンジンを開発する計画が進んでおり、後藤はホンダ時代にV10エンジンの開発を指揮していた経験を買われ、そのV10エンジンプロジェクトの開発責任者となった。後藤らの開発したエンジンは1996年よりフェラーリに搭載され、この年ミハエル・シューマッハのドライブで3勝を挙げる。
1997年よりザウバーがフェラーリエンジンの供給を受けることが決定すると、後藤はそれに合わせる形でザウバーの関連会社であるザウバー・ペトロナス・エンジニアリング(SPE)に移籍。「ペトロナス」のバッジネームが付けられたフェラーリエンジンのチューニングを担当する一方で、独自のV10エンジンの開発プロジェクトをスタートさせるが、1998年にアジアを襲った経済危機のためこの計画は頓挫。以後ザウバーは2005年に至るまでフェラーリからエンジン供給を受け続けることになる。
2001年にはSPEが、翌年よりロードレース世界選手権のMotoGPクラスに参戦することを目標に3気筒・990ccのエンジンを搭載したマシンを開発し、後藤がエンジン開発責任者となるが、この計画も結局途中で頓挫してしまい、マシンは一応完成しテスト走行までこぎつけていたものの実戦投入されることはなかった。
2005年にはザウバーがBMWに買収されたことから、後藤はSPEを退職し独立。現在エンジン開発に関するベンチャー企業の設立を準備中と伝えられている。