マクラーレン
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エントリー名 | Vodafone McLaren Mercedes |
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チーム国籍 | イギリス |
チーム本拠地 | イギリスサリー州ウォーキング |
チーム代表者 | ロン・デニス |
テクニカルディレクター | |
ドライバー | 1. フェルナンド・アロンソ 2. ルイス・ハミルトン |
テストドライバー | ペドロ・デ・ラ・ロサ ゲイリー・パフェット |
シャシー | マクラーレンMP4-22 |
エンジン | メルセデスFO108T |
タイヤ | ブリヂストン |
参戦年度 | 1966 - |
出走回数 | 619 |
コンストラクターズタイトル | 8 (1974, 1984, 1985, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998) |
ドライバーズタイトル | 11 (1974, 1976, 1984, 1985, 1986, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998, 1999) |
優勝回数 | 148 |
通算獲得ポイント | 3141.5 |
表彰台(3位以内)回数 | 389 |
ポールポジション | 125 |
ファステストラップ | 129 |
F1デビュー戦 | 1966年モナコGP |
初勝利 | 1968年ベルギーGP |
2006年順位 | 3位 (110ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
マクラーレン(McLaren)は、1963年にブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チームである。レースチームの会社としての正式名称はマクラーレン・レーシング(McLaren Racing)であり、マクラーレン・グループの一角を為す。代表はマクラーレン・グループの会長であるロン・デニスが兼任している。
目次 |
[編集] 概要
ブルース・マクラーレンにより設立され、1966年よりF1に参戦しており、フェラーリ、ウィリアムズと並び、F1を代表する名門中の名門チームの一角に数えられている。ロン・デニスを中心とする、完璧主義で規律を重んじるチームとして知られる。そのロン・デニスの気質等から「帝国」 と呼ばれることが多く、現在のシルバーの車体色と合わせて、フジテレビのF1グランプリの放送内ではしばしば「銀河帝国」と表現される。2006年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位となっている。
その他のレースカテゴリーでは、CanAm(カナディアン-アメリカン・チャレンジ・カップ)において1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得するなど華々しい成果を収めているほか、インディ500、ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。F1のコンストラクターズタイトル、ル・マン24時間レース、インディ500の3つを制したコンストラクター(車体製造者)は、2005年末時点のところマクラーレンのみである。
2005年シーズン半ばまでタイトルスポンサーだったウエストにかわり、2007年からはボーダフォンがタイトルスポンサーとなったことから、エントリー名はボーダフォン・マクラーレン・メルセデス(Vodafone McLaren Mercedes)となる。
[編集] 歴史
[編集] 1960年代
1963年、ブルース・マクラーレンにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングが設立される。1966年モナコGPでF1デビュー。
1966年と1967年はブルース・マクラーレンのみの1カーエントリーだった。マクラーレンはF1に参戦するかたわら、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムのコンビでCanAmにも参戦。
1968年、この年より2カーエントリーとし、CanAmのデニス・ハルムをF1チームにも加える。ブルース・マクラーレンはブランズハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、同年のベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。
1969年、ブルース・マクラーレンによる1回の優勝を含む5回の表彰台を得る。デニス・ハルムはCanAmの各レースを制覇。
[編集] 1970年代
1970年代は悲劇から幕を開けた。グッドウッドにおいてCanAm用の新車をテストをしていた際の事故により、チームはチームボスであるブルース・マクラーレンを永久に失った。この損失はチームにとって巨大なものであったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、CanAm、F1、F2、インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。

1972年にマクラーレンはマーク・ダナヒューの手によりインディ500初優勝を遂げた。同年年末にCanAmから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決める。この決定は正しく報われ、1974年、F1において、チームはチームにとって初となるコンストラクターズタイトルを獲得するとともに、チーム初となるドライバーズタイトルをエマーソン・フィッティパルディの手により獲得し、同時にインディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされた。これは、このふたつのカテゴリーを同じ年に制した例としては、1965年のロータスに次ぐ2例目となった。
1976年、この年はジェームス・ハントが、日本で開催され雨で混乱したレースとなった最終戦でフェラーリのニキ・ラウダをポイントで逆転して、王座を獲得。F1において両タイトルを再び獲得すると同時に、インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードの手により3度目の優勝を遂げた。
その後マクラーレンは参戦することの意義が薄くなったとして、1979年限りでインディ500から撤退した。
[編集] 1980年代
- それまでのマクラーレン・チームと、マールボロの後援を受けたロン・デニスによるF1参戦計画であった「プロジェクト4」とが合併し、現在まで続くマクラーレンの体制が作られた。この年以降、チームはロン・デニスによって指揮されることとなる。
- ジョン・バーナードの設計によりカーボンファイバー製のモノコックを採用した初のF1マシン、MP4を出走させた。その後のマシンはすべてMP4の後に枝番号を付けた型式番号となったため、MP4は現在ではしばしばMP4/1と表記される。
- この「MP4」は「マクラーレン・プロジェクト4」を意味するとされるが、当時同チームのメインスポンサーであったマールボロの「M」ではないかという噂もあった(もっとも、チーム代表のロン・デニスはこの噂についての質問をされた時には当時から常に否定していた)。
- 1979年途中でF1を引退していた、元ブラバムのニキ・ラウダを、復帰させることに成功。
- F1への参戦を始めたごく初期から一貫して使い続けてきたコスワースのDFVエンジンに別れを告げ、TAGポルシェターボエンジンを採用。1987年まで使用されるこのエンジンは、設計段階からバーナードの意見を積極的に取り入れ車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献し、翌年以降、MP4/2シャシーとの組み合わせで黄金期の前半を支えた。
[編集] 1984 - 1992年(黄金時代)
1984年からほぼ10年間にわたり、マクラーレンは「常勝」とうたわれるまでの活躍を見せ一時代を築く。
日本においては、この間のマクラーレンが1988年からホンダエンジンを使用したことから、アイルトン・セナとともにF1ブームの中心的存在となり、赤と白に塗られたマクラーレンは半ばF1の象徴となった。
- 完全新設計のMP4/2シャシーを投入。シーズンを席巻し、ドライバーズチャンピオン争いはマクラーレンのドライバー二人によって繰り広げられた。
- 最終的に、老獪なラウダが、若きチームメイトアラン・プロストをわずか0.5ポイント差で下し、7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。これはマクラーレンとしてもハント以来8年ぶりのドライバーズチャンピオン獲得であった。チームとしては16戦中12勝(ラウダ5勝、プロスト7勝)をあげ、10年ぶり2度目のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。
- 1985年、1986年にはプロストが2年連続のチャンピオンを獲得した。その一方で、チームメイトのラウダ、ケケ・ロズベルグといった元チャンピオンが、成長したプロストに道を譲るかのようにF1から引退していった。1986年はウィリアムズが強く、コンストラクターズタイトルこそ逃したが、ドライバーズタイトルはプロストが同チームのナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケと激しい争いを見せ、両ドライバーにポイントでリードされて迎えた最終戦を劇的な展開の末に制し、大逆転でチャンピオンを獲得した。
- 1987年
- 前年に爆発的な強さを見せたウィリアムズ・ホンダがこの年は堅調にシーズンを支配し、マクラーレンはいずれのタイトルも獲得出来なかったが、ポルトガルGPではそれまで歴代優勝回数1位であったジャッキー・スチュワートの記録27勝を抜く通算28勝目をプロストが達成するなどところどころで意地を見せた。
- シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。黄金期のピークを彩るマクラーレン・ホンダの誕生である。
- アラン・プロストのチームメイトにアイルトン・セナを迎え入れた。このプロスト、セナのラインナップは、後にF1史上最強のタッグといわれることとなるほど強力に機能する。エンジンもホンダエンジンとなり、2人で16戦中15勝(セナ8勝、プロスト7勝)という前人未到の記録を達成し、ダブルタイトル(ドライバーズはセナ1回目)を獲得する。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナは周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーを1コーナーで抜こうとし接触してリタイアというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回(セナ13回、プロスト2回)獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し実に134ポイントもの差をつける圧勝であった。マシンは「マクラーレンMP4/4」
- 前年同様の布陣でダブルタイトル(ドライバーズはプロスト3回目)を獲得するが、常勝ゆえの深刻な弊害も起きた。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなった。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まったが、この遺恨は翌年以降も尾を引き、2人の関係はプロストのF1引退レース(1993年オーストラリアGP)で両者が和解するまで修復されなかった。同時に、マクラーレンはこのシーズン限りでプロストを失い、2人の偉大すぎるドライバーを抱えることがいかに難しいかということを知らしめる結果ともなった。マシンは「マクラーレンMP4/5」
- プロストの離脱により、ゲルハルト・ベルガーがセナのチームメイトに迎えシーズンを戦う。前年までのようにエアロダイナミクスが劣っていても有り余るホンダパワーでその分をカバーするという具合にはいかず、ベルガーの成績も伸び悩んだこともあって(未勝利)、前年以前のように簡単にタイトルが獲れるような状況ではもはやなかった。それに加え、プロストが移籍したフェラーリはエンジンパワーでこそマクラーレンが搭載するホンダに遅れをとったが、優れたエアロダイナミクスによりマクラーレンと互角以上のパッケージングを作り上げ、この年は空力の良し悪しが車の速さを大幅に左右する事が証明されたシーズンともなった。空力面でバランスを崩しつつあったマクラーレンは、その分野で優位性を築いたフェラーリによって大いに苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦日本GPまで持ち込まれた。結局、スタート直後の1コーナーでセナとプロストが接触したことで両者リタイアとなり、セナの2度目のチャンピオンが決まった。
- この日本GPの1周目の時点でドライバーズタイトルは決まったが、フェラーリと争っていたコンストラクターズタイトルはこの時点では決着がついていなかった。結果として、ベルガーが2周目1コーナーでコースアウトを喫してリタイアした一方で、プロストのチームメイトのマンセルもマシントラブルでストップしたことにより、ドライバーズタイトルと同じく日本GPで獲得し、ダブルタイトルの防衛に成功した。マシンは「マクラーレンMP4/5B」
- ホンダが前年から開発していたV12型エンジンを導入しシーズンを戦い、セナが当時としては新記録となる開幕4連勝を達成した。前年までと同様にホンダの強力なエンジンパワーがエアロダイナミクスの弱点をカバーしたが、前年から兆候のあったシャシー、エンジンを含めたトータルパッケージとしての重量バランスの狂いは、ハイパワーではあるもののV10より重いV12の採用でますます深刻さを増し、シーズン中盤以降は先進的なエアロダイナミクス、信頼性が増したセミオートマチックミッション、バランスの良いルノーエンジンで戦闘力を増したウィリアムズに苦しめられ、2年連続で厳しい戦いを強いられることとなった。特にエンジントラブルやテレメトリーのミスによるガス欠でのストップ等もタイトル争いで苦戦する要因となった。こうした状況に至って、ハイテク導入に消極的だったマクラーレンチームも腰を上げ、遅まきながらシーズン途中でアクティブサスペンションとセミオートマチックミッションの開発に着手した。結果的には序盤戦の貯金もあったことからなんとか逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトル(3回目)を獲得した(コンストラクターズは最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの獲得)。
- 日本GPでは「スタート直後の1コーナーに先に入った方が優勝とし、後ろに回ったものがマンセルをブロックする」と両ドライバー間で約束をしたが、レース途中にベルガーのペースが上がらずセナがベルガーを抜いてしまった。そのままレースは進行したものの、セナが最終周の最終コーナーでベルガーを前に出して優勝を譲った。これはセナがレースの真の勝者が誰であるかを誇示した行為であったが、それまでのレースからセナにかなわないことをベルガーが悟っていたことから、このことにより両者の関係が悪化することはなかった。ロン・デニスはレース中何度も無線でセナに対してポジションを譲るよう指示を出していたが、セナはわざと聞こえないふりをしていたという。
- ほか、この年、チームの無線はスクランブルが掛かっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受された事はチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。マシンは「マクラーレンMP4/6」
- 体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦の数レースは信頼性の高い前年の改良型「マクラーレンMP4/6B」で戦った後に新型「MP4/7」を出す予定だったが、ウィリアムズのあまりの速さの前では改良をほどこした旧型では勝負にならなかった。そのためブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「フライ・バイ・ワイヤー」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入するが、もはやエンジンパワーでエアロダイナミクスの弱点を補うという前年までの方法や、こうした付け焼刃的なハイテクの導入では、トータルパッケージで優れたチームに太刀打ち出来る時代でも状況でもなかった。アクティブサスペンションなどのハイテクとエンジン、シャシーなど全てがバランス良くまとめられたパッケージングを武器とするウィリアムズの前に歯が立たず、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも獲ることが出来なかった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打ち、撤退した。
[編集] 1990年代中盤
ホンダの撤退後、マクラーレンは長期の低迷を味わうこととなる。マクラーレンにとって、1990年代中盤はメルセデスと技術及び資本提携を結びその成果が現れるまでの雌伏の期間となった。
この間、1993年の最終戦でセナが優勝して以後、1997年オーストラリアGPでデビッド・クルサードが勝利を挙げるまで、マクラーレンとしては異例となる計49レースもの長きに渡って未勝利の時期が続いた。
[編集] 1993年 - 1994年(フォード・プジョー時代)
- 1993年
- マイケル・アンドレッティがチームに加入したが、エンジンがカスタマー仕様のフォード・コスワースV8エンジンで非常に苦しい戦いとなった。しかも実質的なファーストドライバーのセナとはシーズン前に年間契約を結べずに第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交すという体制を余儀なくされたが、ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンチームと同じワークス仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。
- この年のマシンMP4/8は空力、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるエンジンパワーの差は如何ともしがたかった。車体全体の性能面でもウィリアムズとの差は大きかったが、その一方で、大きくて重いホンダエンジンが軽量なコスワースに代わったことにより、皮肉にもマシンの重量バランスは改善され、戦闘力向上に寄与していたとも言われる。結果的には、セナのドライバー・テクニックによって奇跡的とも思われる勝利を幾つかつかみ取ったこともあって、前年と同じく年間5勝を挙げ、最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止するなど、苦戦が予想されたシーズン開幕前の下馬評と異なり、望外の結果を得、コンストラクターズランキングもウィリアムズに次ぐ2位となった。
- 鳴り物入りで参戦したチャンプカーチャンピオンのアンドレッティは苦戦が続き、シーズン終盤のイタリアGPでの3位表彰台を最後に契約解除となりアメリカへ帰国し、ロータスから移籍してテストドライバーを務めていたミカ・ハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となったポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回るなど、わずか3戦の出走の中で上々のパフォーマンスを見せ、翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
- シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。
- ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビになり、エンジンも前年のフォードエンジンからワークスのプジョーエンジンへと乗せ換えたが、前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって大いに苦しめられることとなった。フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後にエンジンブローとなるなど散々な結果となり、チームは複数年契約だったプジョーとの契約をこの年のみで打ち切り、翌年はメルセデスエンジンへと変更することを早々に決めた。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。
[編集] 1995年 - 1997年(メルセデス時代の始まり)
- この年から、メルセデス・ベンツがエンジンを供給することとなった(実際の開発はイルモアが担当)。
- 当初、ナイジェル・マンセルと契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりにマーク・ブランデルをレース毎の契約で乗せることとした。結局マンセルは第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPにこそ参戦したものの、それぞれ10位・リタイアと希望の持てないリザルトに嫌気が差したか、「喧嘩別れ」の様な形でチームを去ることとなった。元々からしてチーム代表であるロン・デニスとナイジェル・マンセルは「犬猿の仲」と言われるほど仲が悪いのは有名な話であり、にも関わらずマンセルと契約せざるを得なかったのは、前年のセナの死によりスター不在を憂慮したバーニー・エクレストンらFIA側の意思が強く働いた結果という政治的要因にあったことは明白であり、シーズン開幕以前の段階からF1関係者の誰もからロン・デニスとマンセルの「蜜月」が早期に破局することは予想されていたことだった。この年のマシンの戦闘力不足は他のトップチームと比べると明らかで、シーズン中に何度もモディファイされた。またパシフィックGP(TIサーキット英田)ではハッキネンが盲腸炎になりテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用し、翌週の日本GPもマグヌッセンで行く予定でいたが、ハッキネンの驚異的な回復力でマクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。しかし、ハッキネンは最終戦オーストラリアでタイヤのパンクが原因で大クラッシュを起こし、辛いシーズンを最悪の形で終えることとなった。
- この年から、ハッキネンのパートナーにウィリアムズよりデビッド・クルサードを迎え、このコンビは2001年限りでハッキネンがF1を去るまで実に6年もの長きに渡り続くこととなる。前年末からアラン・プロストがアドバイザーとしてチームに迎え入れられ時には自らステアリングを握り車の開発作業に従事したが、ライバルのウィリアムズとは勝負にならなかった。
- この年をもって長年メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了し、23年間慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。
- インペリアル・タバコのドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。この年、開幕戦オーストラリア・第13戦イタリアGPでクルサードが、最終戦ヨーロッパGPでハッキネンがF1初優勝し、年間で計3勝をあげて復活の兆しを見せるが、特にメルセデスエンジンのトラブルによりレースを失うことが多かった。この年の初めにウィリアムズからエイドリアン・ニューウェイを迎えてシャシー性能向上を図ることを目論み、これが翌年以降の活躍の基礎となる。
- シーズン終了後にグッドイヤー社が「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、1998年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更する事になった。
- この年のMP4-12より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。
[編集] 1990年代末(復活)
- ハッキネンが8勝をあげて初のチャンピオンを獲得する。これにはこの年より装着することとなったブリヂストンタイヤが大きな力となった。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなり、これ以降ブリヂストンは2004年まで7年連続でダブルタイトルを取り続ける事になった。チームも1991年以来7年ぶりにコンストラクターズ・タイトルを獲得した。
- ハッキネンがフェラーリのエディ・アーバインとの争いを制して2年連続のチャンピオンに輝いたものの、クルサードの成績が伸び悩みコンストラクターズ・タイトルはフェラーリに奪われてしまった。
[編集] 2000年代
- 再びフェラーリとミハエル・シューマッハとの激しいチャンピオン争いとなったが、惜しくも両タイトルともに逃す結果となる。
- この年、タイトルこそ逃すこととなったが、テストドライバーとして契約をしたオリビエ・パニスの加入はMP4-15の開発に大いに貢献をし、特にタイヤテストに関しては1997年からブリヂストンと仕事をしていたという当時一級の豊富な経験もありチームに膨大な情報をもたらし、車の開発にもパニスのレギュラードライバーとしての経験は大いに役立った。パニスはプロスト時代末期には同チームの低迷ともあいまって引退がささやかれるほどの屈辱的な低評価を味わっていたが、このマクラーレンでの活躍が認められ、翌2001年からレギュラードライバーとしてB・A・Rへ移籍する事になった。これはレギュラードライバーからテストドライバーになる事は「レギュラードライバーを諦める」こと、というそれまでの図式を覆した良い前例となり、テストドライバーとしてチームに貢献出来ればレギュラードライバーのシートを得ると言う筋道を作った出来事となり、他チームにおいても、テストドライバーの位置づけを見直させる機会となった。マクラーレンのテストドライバーについても翌年加入のアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはさらにペドロ・デ・ラ・ロサといった強力な布陣を実現させるひとつの契機となっている。
- この年からベリリウム合金の使用が禁止となる。これはフェラーリから「ベリリウムは人体に有害である。」との抗議がFIAに対して行われた為であるが、エンジンの性能をこれに頼っていたメルセデス・エンジンは急遽再開発を余儀なくされ、結果として「失敗作」を造ってしまった。
- 度重なるマシントラブルがハッキネンを襲った。これは、チームにおいてデザイナーのニューウェイがジャガーへ移籍する契約書へサイン(結果的にはチームに留まったが)したり主要スタッフの離脱があったりとチーム内での足並みの乱れが車の開発に影響を及ぼした結果であり、モチベーションを奪われたハッキネンはこの年をもってF1を「休養」することとなる(結局翌年のドイツGPにおいてF1引退を発表)。コンストラクターズランキングは2位であった。

- この年からはハッキネンの後を受けて、同郷のキミ・ライコネンがザウバーから移籍してきたが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の熟成作業がヨーロッパラウンドに入ってから本格的になるというありさまとなってしまう。フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスのミシュランへ変更したものの、初年度のこのシーズンはタイヤの特性の違いをチームが把握しきれず苦しい戦いとなる。また、この年はタイトル争いに加わる事が出来なかっただけではなく、フェラーリがシリーズを席巻したこともあり、優勝ですらモナコGPでデビッド・クルサードが挙げた1勝にとどまった。
- ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。
- 前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的に19は18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューエイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードにとってはマクラーレン最後のシーズンであったが、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去っていった。
- ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は別格の速さを見せ、ルノー、フェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。チームは1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げるが、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
- この年は、前年コンストラクターズランキング5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたため、バーレーンGP、サンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞するなど、テストドライバーたちが久々の実戦で大いに実力をアピールしている。
- 第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「WEST」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「WEST」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。
- 前年までチームの躍進を担ってきたエイドリアン・ニューウェイがレッドブルへ移籍。また2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットがテストドライバーに加わる事になり、それに伴って5年間と言う長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。
- 2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更に対応しきれず、メルセデスが十分な戦闘力を持つエンジンを提供できなかった。加えてこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイ不在の影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。結果として、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
- モントーヤが7月9日に2007年はアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)する事を発表。2006年シーズンをもってF1から離れる事になった。しかし、この発表がチーム首脳には直前になって知らされたこともあり、マクラーレンのドライバーとしては異例であるが、シーズン途中で契約が解除され、テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとしてシーズンの残りのレースに参戦した。
- ライコネンがフェラーリへ移籍。代わりに2005年、2006年のワールドチャンピオンであるフェルナンド・アロンソが加入し、チームメイトとして2006年のGP2チャンピオンのルイス・ハミルトンがF1デビューを果たすことになった。またメインスポンサーがイギリスの携帯電話会社のボーダフォンになった。開幕戦から速さを発揮し第2戦では見事フェラーリを破り、2005年ブラジルGP以来の1-2フィニッシュを達成した。
[編集] カラーリング
イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年からしばらくは車体はブルース・マクラーレンの母国ニュージーランドのナショナルカラーであるオレンジ色に塗られていた。
その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られた俗にマルボロカラーと呼ばれるカラーリングが長らく用いられた。このカラーリングは、1970年代のそれと、1980年代以降のそれでは、赤の部分の色合いに若干の変化が見られる。
1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特に特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマルボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。
[編集] 例外
上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代、の3つに分けることが可能であるが、40年余りの歴史の中では例外もあり、1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPでは当時スポンサーだったビール会社ロウエンブラウ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。
近年では、マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いている。
[編集] マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー
- エマーソン・フィッティパルディ(1974)
- ジェームス・ハント(1976)
- ニキ・ラウダ(1984)
- アラン・プロスト(1985 , 1986 , 1989)
- アイルトン・セナ(1988 , 1990 , 1991)
- ミカ・ハッキネン(1998 , 1999)
[編集] 変遷表
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2007年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-22 | ブリヂストン | メルセデス | モービル | フェルナンド・アロンソ ルイス・ハミルトン |
1(13pts) - オーストラリアGP終了時点 | |
2006年 | チーム・マクラーレン・メルセデス | MP4-21 | ミシュラン | メルセデス | モービル | キミ・ライコネン ファン・パブロ・モントーヤ ペドロ・デ・ラ・ロサ |
3 (110pts) | 0 |
2005年 | チーム・マクラーレン・メルセデス | MP4-20 | ミシュラン | メルセデス | モービル | キミ・ライコネン ファン・パブロ・モントーヤ ペドロ・デ・ラ・ロサ アレクサンダー・ヴルツ |
2 (182 pts) | 10 |
2004年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-19 MP4-19B |
ミシュラン | メルセデス | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
5 (69 pts) | 1 |
2003年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-17D | ミシュラン | メルセデス | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
3 (142 pts) | 2 |
2002年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-17 | ミシュラン | メルセデス | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
3 (65 pts) | 1 |
2001年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-16 | ブリヂストン | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2 (102 pts) | 4 |
2000年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-15 | ブリヂストン | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2 (152 pts) | 7 |
1999年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-14 | ブリヂストン | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2 (124 pts) | 7 |
1998年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-13 | ブリヂストン | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
1 (156 pts) | 9 |
1997年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-12 | グッドイヤー | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
4 (63 pts) | 3 |
1996年 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | MP4/11 | グッドイヤー | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
4 (49 pts) | 0 |
1995年 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | MP4/10 MP4/10B MP4/10C |
グッドイヤー | メルセデス | モービル | ミカ・ハッキネン マーク・ブランデル ナイジェル・マンセル ヤン・マグヌッセン |
4 (30 pts) | 0 |
1994年 | マールボロ・マクラーレン・プジョー | MP4/9 | グッドイヤー | プジョー | シェル | ミカ・ハッキネン マーティン・ブランドル フィリップ・アリオー |
4 (42 pts) | 0 |
1993年 | マールボロ・マクラーレン | MP4/8 | グッドイヤー | フォード | シェル | アイルトン・セナ マイケル・アンドレッティ ミカ・ハッキネン |
2 (84 pts) | 5 |
1992年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/6B MP4/7A |
グッドイヤー | ホンダ | シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
2 (99 pts) | 5 |
1991年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/6 | グッドイヤー | ホンダ | シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
1 (139 pts) | 8 |
1990年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/5B | グッドイヤー | ホンダ | シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
1 (121 pts) | 6 |
1989年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/5 | グッドイヤー | ホンダ | シェル | アイルトン・セナ アラン・プロスト |
1 (141 pts) | 10 |
1988年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/4 | グッドイヤー | ホンダ | シェル | アラン・プロスト アイルトン・セナ |
1 (199 pts) | 15 |
1987年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/3 | グッドイヤー | TAGポルシェ | シェル | アラン・プロスト ステファン・ヨハンソン |
2 (76 pts) | 3 |
1986年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2C | グッドイヤー | TAGポルシェ | シェル | アラン・プロスト ケケ・ロズベルグ |
2 (96 pts) | 4 |
1985年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2B | グッドイヤー | TAGポルシェ | シェル | ニキ・ラウダ アラン・プロスト ジョン・ワトソン |
1 (90 pts) | 6 |
1984年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2 | ミシュラン | TAGポルシェ | シェル | ニキ・ラウダ アラン・プロスト |
1 (143.5 pts) | 12 |
1983年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1C MP4/1E |
ミシュラン | TAGポルシェ | ユニパート | ニキ・ラウダ ジョン・ワトソン |
5 (43 pts) | 1 |
1982年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1B | ミシュラン | フォード | ユニパート | ニキ・ラウダ ジョン・ワトソン |
2 (69 pts) | 4 |
1981年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | M29C M29F MP4/1 |
ミシュラン | フォード | ユニパート | ジョン・ワトソン アンドレア・デ・チェザリス |
6 (28 pts) | 1 |
1980年 | マールボロ・チーム・マクラーレン | M29B M29C M30 |
グッドイヤー | フォード | カストロール | ジョン・ワトソン アラン・プロスト ステファン・サウス |
8 (11 pts) | 0 |
1979年 | マールボロ・チーム・マクラーレン * Lowenbrau Team McLaren (M23) |
M26 M28 M28B M28C M29 |
グッドイヤー | フォード | カストロール | ジョン・ワトソン パトリック・タンベイ |
7 (15 pts) | 0 |
1978年 | マールボロ・チーム・マクラーレン * Liggett Group/BS Fabrications (M23, M26) * Centro Asegurador F1 (M23) * Melchester Racing (M23) |
M23 M26 |
グッドイヤー | フォード | テキサコ | ジェームス・ハント パトリック・タンベイ ブルーノ・ジャコメリ ブレット・ランガー ネルソン・ピケ エミリオ・デ・ヴィロッタ トニー・トリマー |
8 (15 pts) | 0 |
1977年 | マールボロ・チーム・マクラーレン * Chesterfield Racing (M23) * Iberia Airlines (M23) |
M23 M26 |
グッドイヤー | フォード | テキサコ | ジェームス・ハント ヨッヘン・マス ジル・ヴィルヌーヴ ブルーノ・ジャコメリ ブレット・ランガー エミリオ・デ・ヴィロッタ |
3 (60 pts) | 3 |
1976年 | マールボロ・チーム・マクラーレン | M23 | グッドイヤー | フォード | テキサコ | ジェームス・ハント ヨッヘン・マス |
2 (75 pts) | 6 |
1975年 | マールボロ・チーム・テキサコ * Lucky Strike Racing (M23) |
M23 | グッドイヤー | フォード | テキサコ | エマーソン・フィッティパルディ ヨッヘン・マス デイブ・チャールトン |
3 (63 pts) | 3 |
1974年 | マールボロ・チーム・テキサコ * ヤードレイ・チーム・マクラーレン (M23) * Scribante Lucky Strike Racing (M23) |
M23 | グッドイヤー | フォード | テキサコ サソル |
エマーソン・フィッティパルディ デニス・ハルム マイク・ヘイルウッド ヨッヘン・マス デビッド・ホブス デイブ・チャールトン |
1 (73 pts) | 4 |
1973年 | ヤードレイ・チーム・マクラーレン | M19A M19C M23 |
グッドイヤー | フォード | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・レブソン ジョディー・シェクター ジャッキー・イクス |
3 (58 pts) | 3 |
1972年 | ヤードレイ・チーム・マクラーレン | M19A M19C |
グッドイヤー | フォード | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・レブソン ジョディー・シェクター ブライアン・レッドマン |
3 (47 pts) | 1 |
1971年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング * Ecurie Bonnier (M7C) * Penske-White Racing (M19A) |
M7C M14A M19A |
グッドイヤー | フォード | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・ゲシン ジャッキー・オリバー ヨー・ボニエ ヘルムート・マルコ マーク・ダナヒュー |
6 (10 pts) | 0 |
1970年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング * Team Surtees (M7C) * Ecurie Bonnier (M7C) |
M7C M14A M7D M14D |
グッドイヤー ファイアストン |
フォード アルファ・ロメオ |
ガルフ | デニス・ハルム ブルース・マクラーレン ピーター・ゲシン ダン・ガーニー アンドレア・デ・アダミッチ ナンニ・ガッリ ジョン・サーティス ヨー・ボニエ |
4 (34 pts) | 0 |
1969年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング * Team Lawson (M7A) * Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing (M7B) |
M7A M7B M7C M9A |
グッドイヤー ダンロップ |
フォード | シェル ガルフ |
デニス・ハルム ブルース・マクラーレン デレック・ベル ベイシル・ファン・ルーエン ビック・エルフォード |
4 (38 pts) | 1 |
1968年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング * Joakim Bonnier Racing Team (M5A) * Anglo American Racers (M7A) |
M5A M7A |
グッドイヤー | フォード BRM |
シェル | デニス・ハルム ブルース・マクラーレン ヨー・ボニエ ダン・ガーニー |
2 (51 pts) | 3 |
1967年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M4B M5A / M7A |
グッドイヤー | BRM | シェル | ブルース・マクラーレン | 8 (3 pts) | 0 |
1966年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M2B | ファイアストン | フォード セレニッシマ |
シェル? | ブルース・マクラーレン | 8 (3 pts) | 0 |
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
[編集] 資本
- F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
- 2000年1月、メルセデス・ベンツの親会社ダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強い。
- 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。
[編集] マクラーレン・グループ
(主な会社のみ)
- マクラーレン・カーズ (McLaren Cars)
- 1990年に設立。高性能市販車の開発を行っている。
- 1994年、ゴードン・マレーのデザインによる非常に高価な公道走行車である「マクラーレン F1」(McLaren F1)を少数生産していた。前席は中央に運転席のみ、後部に2座席というきわめて稀な座席レイアウトを持つ。この車は、現在のところ、かつて生産された中で最も速い車であり、最高速度は時速370kmを超えて尚伸び続けるという。比較の対象となり得る他の自動車は、エンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari) 、ブガッティ(Bugatti)EB110 、サリーン(Saleen)S7 等。1995年には、「マクラーレン F1」の競技用仕様である「マクラーレンF1 GTR」の1台がル・マン 24時間レースで優勝した。
- 2003年9月、メルセデス・ベンツが「メルセデス・ベンツ SLRマクラーレン」を発表。開発・生産はマクラーレン・カーズが担当。受注販売のみとはいえ量産車として販売される。
- マクラーレン・エレクトロニックシステムズ (McLaren Electronic Systems)
- マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
- 1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
- マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
- 1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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