徳川治寶
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時代 | 江戸時代 | |||
生誕 | 明和8年6月18日(1771年7月29日) | |||
死没 | 嘉永6年12月8日(1853年1月16日) | |||
改名 | 岩千代(幼名) | |||
戒名 | 舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公 | |||
墓所 | 長保寺 | |||
官位 | 従四位下常陸介、従三位参議右近衛権中将、 従二位権大納言、正二位権大納言、 従一位大納言(極位極官) |
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藩 | 紀伊国紀州藩主 | |||
氏族 | 紀州徳川家 | |||
父母 | 父:徳川重倫、母:澄清院 | |||
兄弟 | 彌之助、治寶 | |||
妻 | 正室:種姫(徳川宗武娘) | |||
子 | 鍇姫(伊達斉宗室)、豊姫(徳川斉順室) 徳川斉順 |
徳川 治寶(とくがわ はるとみ、1771年7月29日(明和8年6月18日) - 1853年1月16日(嘉永6年12月8日))は紀伊国紀州藩・第10代藩主。8代藩主・徳川重倫の次男として生まれるが、安永6年(1777年)に9代藩主・徳川治貞の養子となる。母はおふさ(佐々木氏、澄清院)。正室は種姫(田安宗武の娘)。極位極官は従一位大納言であり、御三家当主で生前に従一位に叙せられたのは治寶のみである。
[編集] 人物
学問好きで知られた治寶は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、藩都和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。これら藩校の蔵書は現在は紀州藩文庫に保管されている。ちなみに治寶の祖母清信院は、賀茂真淵の門人であり、宣長は清信院の屋敷であった吹上御殿で講釈も行なっている。国学者・本居宣長を召し出し、松坂城下に住まわせたことは有名である。仁井田好古や大平を登用し史書を編纂させ、「紀伊続風土記」の新撰を命ずるなど文化・芸術面での功績が非常に大きい。古事記伝の題字も治寶が行なっており、治寶は「数寄の殿様」と呼ばれるに至った。表千家や楽家を庇護した治寶は、文政2年(1819年)に、表千家9代了々斎や楽家10代旦入を紀州藩の別邸西浜御殿(現和歌山市西浜)に招いている。三井北家(三井家の惣領)6代三井高祐が西浜御殿にて手造りした茶碗に治寶が亀の絵を描いたと伝わる。ちなみに、三井家は紀州藩領の伊勢国松坂が一族のルーツであるということが縁で紀州徳川家とは強いつながりがあった。三井家には治寶から下賜された宝物が多数伝わっており、紀州徳川家と三井家、さらには表千家との深いつながりを窺うことが出来る。表千家の総門は治寶が下賜したものである。その他にも和歌浦に不老橋を築造している。
文政6年(1823年)和歌山城下で大規模な百姓一揆が勃発し、翌年藩主の座を将軍家からの養子・清水斉順(徳川家斉の七男・後の徳川斉順)に譲った。隠居後も藩政の実権を握ったが、嘉永5年(1852年)逝去した。
[編集] 官職位階履歴
- 1771年(明和8)6月18日、誕生。幼名:岩千代。
- 1777年(安永6)3月7日、紀州藩主徳川治貞の養子となり、世継ぎとなる。
- 1782年(天明2)3月7日、元服し、将軍徳川家治の諱を一字賜り、治寶と名乗り、従四位下常陸介に叙任。
- 1783年(天明3)12月1日、従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。
- 1789年(寛政元)12月2日、家督相続し、藩主となる。12月19日、参議に補任。
- 1791年(寛政3)7月1日、権中納言に転任。
- 1816年(文化13)5月1日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
- 1824年(文政7)6月6日、隠居。
- 1832年(天保3)3月5日、正二位に昇叙し、権大納言如元。
- 1837年(天保8)8月28日、従一位に昇叙し、権大納言如元。
- 1853年(嘉永6)1月20日、薨去。享年83(実は嘉永5年(1852)旧暦12月7日薨去)。法名:舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公
[編集] 関連項目
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