文帝 (漢)
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文帝(ぶんてい、紀元前202年 - 紀元前157年 在位紀元前180年 - 紀元前157年)は、前漢第5代皇帝(恵帝の子とされる二人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。姓は劉。諱は恒。正式な諡号は孝文皇帝。廟号は太宗。高祖劉邦の庶子(第4子)で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。
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[編集] 概要・人物
[編集] 出生
薄氏の母は、戦国時代の魏王家の出身で、その縁で薄氏は、秦末の動乱期から楚漢戦争初期の頃に魏王豹(魏豹)の後宮に入内する。この頃、彼女の人相を見た占い師は「いずれ、貴女様は天子様をお生みなさるでしょう」と予言したという。 それを真に受けてか、一度は漢王劉邦に同調し楚の項羽に対したはずの魏豹は、彭城の大敗を機に劉邦へ反乱を起こした。しかし漢の大将軍・韓信に再び敗れ、当時、劉邦の居た榮陽に連行されると、薄氏等の一族や関係者も同様に連行される。 薄氏は、劉邦の後宮で下働きをさせられることとなるが、ふとしたことから劉邦の目に留まり、寝所に召されることとなる。劉邦と関係を持ったのはこの時だけだったようであるが、このことで薄氏は妊娠。劉恒を出産することとなる。
[編集] 代王時代
楚漢戦争が終結し、劉邦が皇帝となり異姓諸侯王廃絶政策が断行されると、劉恒は趙に国替えとなった異母兄・劉如意の後任として、代王に封建された。しかしこの時点で、劉恒はまだ幼く、劉邦子飼いの臣下・傅寛が宰相に配され、代王太后(代王国の太后)となった薄氏と、その弟・薄昭とともに任国に向かい、そこで成長したようである。 劉邦の没後、その正妻の呂雉が皇太后(呂太后)として政権を握り、劉如意など劉邦の妾腹の皇子(諸侯王)を次々と殺害していったが、劉恒は難を逃れている。その背景には、劉恒の生母である薄氏が、劉如意の生母の戚氏などと違い、劉邦からあまり寵愛されなかったことが原因としてあるらしい。また彼のすぐ下の異母弟の趙共王・劉恢が自分の側室が正室の呂氏(呂后の甥・呂産の娘)によって毒殺され、その後を追って自害すると、呂后から、その後釜の王として検討された。ところが劉恒は劉恢を初め、劉友(趙幽王)ら異母弟が呂后によって非業の死を遂げているのを熟知していた。そこで劉恒は呂后に上奏して「代は匈奴に近うござります。わたしはその蕃族を防御する重要な役目がござります。この件は見送らせていただきます」と婉曲的に断ったという。そのために趙王は呂后の甥・呂禄が封じられたという。
[編集] 皇帝即位前後
紀元前180年、呂雉が死に、実家の呂氏が少帝弘とともに周勃、陳平ら劉邦子飼いの元勲及び劉邦の孫達(斉王劉襄と朱虚侯劉章)によるクーデターで皆殺しにされると、新しい皇帝として、劉恒が迎えられることとなった。これが文帝であり、かつて、薄氏の人相を見た占い師の予言はその時から数十年を経て実現されることとなったのである。
劉恒が、皇帝に迎えられるということは、当人及びその周囲、そしてクーデターを主導した皇族、元勲達にとってもまったく予想外の事態であったらしい。そもそも、このクーデターを実行した劉襄と劉章の兄弟は、劉邦の庶長子とされる劉肥(斉悼恵王)の遺児であり、呂氏打倒に最初に立ち上がった功績からも劉襄が皇帝として擁立され、劉章は斉王に封建されるはずであった。しかし、呂氏という強い権力を持った外戚に散々苦しめられた一部皇族から、外戚が強い権力欲を持っている斉王を皇帝に迎えれば、外戚が第2の呂氏になるのではとの危惧の声が上がり、生母が没落貴族の末裔で、あまり権力欲のない人格者との評判の高い劉恒が選ばれたのである。また、劉恒は生存する劉邦の遺児としては最も年齢が上であり、年齢の順で選んだと正論が立つ。
しかし、劉恒の皇帝即位については、代国政府内部からも反対の声が上がった。それは高祖とともに戦乱の世を生き抜き、クーデターを主導して、呂氏一門ばかりか皇帝まで殺害した、いわば海千山千の元勲達を信用できないというものであった。それと劉恒の謙虚さもあって、皇帝即位を求める使者が長安と代国とを往復することが5度に及び、ようやく即位を決めた。即位の際に代国から長安へ来る際、劉恒の皇帝即位を妬んでいる人物も多数おり、危険な道のりになるにもかかわらず、数名の側近と6騎の馬車を引き連れ、無事に長安に辿り着いた。即位してしばらくの間は、文帝と元勲達との関係もギクシャクとしたものとなり、文帝が法制度の改革を行おうとして重臣達に下問した際も、かなり厭味な内容の含まれた上書が行われたという。
しかし、時期が経つにつれて、元勲達が政治の第一線から姿を消し、代国以来の臣下を政府の重職に加えるなどして、政権の主導権を確保するようになると、徐々に政治改革を進めていくこととなる。
[編集] 文帝の施政
文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来のそれを受け継ぎ、民力の休養と活性化であった。言うなれば、大事業は、急を要するものを除き、取り止めたのである。宮中で、楼閣を設けようという話が出たときには、その工事費用が中流家庭十軒分の資産に相当すると聞いて、急遽取り止めたり、自らの陵墓を父や兄のそれに比べて、はるかに小さなものにしている。また、文帝の在位期間には、度々、減税が行われ、時には、一切の税が免除された年もあったという(ただし、労役については行われていたようである。)。次いで、先にあげた法制度の改革では、斬首、去勢を除く肉刑の廃止を行っている。
ちなみに、母親である薄氏に対しては孝行を尽くし自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、のちに二十四孝として数えられた。文帝は薄氏には頭が上がらず、あらぬ罪で周勃が逮捕された際には薄氏が文帝を呼びつけて叱りつけ、その後周勃が解放されたり、また家臣が皆揃って反対した文帝自らの匈奴遠征について誰も止められない状態に陥ったものの薄氏が遠征を止めるよう進言すると、遠征を止めたりという話が残っている。
自らの皇帝即位時に於いて、擁立してくれた相手でもあり、強力なライバルでもあった、漢王朝の分家にあたる諸侯王に対しては、事を荒立てぬように接し、本来ならば無嗣断絶になる筈だったり、謀反を起こして取り潰しになる筈の王家に、皇帝の恩を施すという名目で、先代、先々代の王の庶子で、侯爵の地位にあるものに、その王国領を分割相続させている。このことについては、呉楚七国の乱の原因となったと批判されているが、この分割相続によって、反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。
文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、或いは、孫の武帝の時代に比べれば、いささか華やかさにかけるものの、国民にとっては、安心して生活のできる時代であったろう。文帝の治世は彼の後を継いだ息子の景帝の時代と合わせて、「文景の治」と賞賛され、食料が倉庫に積みあがって食べ切れずに腐らせてしまったり、銭さし(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなったりしたなどと言われる。
文帝の十六年 玉杯が発見され、「人主延寿」と瑞兆ともいうべき文字が彫られていた 玉杯が発見され その記念に元号を定め、後元と改元した。 元号らしい元号は武帝の時代からだが、 文帝の後元が元号の第一号。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
[編集] 子女
王皇后の4人の皇子(早世)
- 景帝・劉啓
- 梁孝王・劉武(はじめは代王)
- 代孝王・劉参
- 梁懐王・劉揖(劉昭)
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- 館陶公主(劉嫖、堂邑侯・陳午夫人)
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