新庄祭
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新庄祭(しんじょうまつり)は山形県新庄市で開催される祭である。
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[編集] 概要
- 期間:8月24日~26日(2006年は250周年を記念して27日も開催)
- 会場:新庄市内、最上公園
- 内容:宵祭、本祭、後祭の3つからなる。
「東北三大山車祭」の一つであり、東北の夏祭りのフィナーレを飾る祭りでもある。毎年10万人を越える人手があり、近年は、山形新幹線の開通で遠方からの観光客が増えている。
山車を町衆が作り、囃子を近隣の在郷衆(ざいごしゅう。農村部の住民)が行い、それぞれのグループを「若連」「囃子若連」と称する。山車は、歌舞伎や御伽話を再現したものであり、囃子は、基本的に「宿渡り(すくわたり)」と「郭公(かっこう)」の2種類。囃子若連によっては3種類である。
[編集] 山車
進行方向左側が豪華絢爛に飾り付けられる。唯一、本来なら同時には咲かない桜と牡丹を同時に飾り付けると言うルール以外は、自由に飾り付けしても良く、若連によって、ハリボテ、ねぶたを思わせる巨大灯篭、フラッシュ光、ドライアイスを使った煙、中に人が入って傘回しならぬ蓋回し(分福茶釜)をするなど、さまざまな趣向を見せる。進行方向の右側は、左側の見栄えを良くするために山のハリボテが配される場合が多く、多くの場合滝の絵があり、その両岸に桜や牡丹の花や水しぶきを表すグラスファイバーが配されている。
山車を動かすために、前面に方向転換のための梶棒があり、その梶棒に2本の曳き綱が結び付けられている(梶棒ではなく自動車のハンドルである若連もある)。当日は、小学生の曳き手が山車を曳く主力となる。足回りはタイヤである。
山車運行の際は、電線に山車が引っかからないように、常に左右に電線を持ち上げる棒を持った人を配する。高さが低いアンダーパスを通すために、人形やハリボテを外せる細工を行っている若連もある。
[編集] 囃子
基本構成としては、笛、鐘、大太鼓と小太鼓であり、囃子若連によっては三味線がある。山車の後部に腕木を通して、そこに大太鼓と小太鼓を結わえ付け、太鼓役は見事な手さばきで大太鼓と小太鼓を交互に叩く。その後方に笛役と鐘役が続く。
新庄市の郊外では、6月頃から夜になるとどこからともなく囃子の練習をする音が響いてくる。各集落によって節回しに独自の癖があり、囃子若連ごとの聞き比べも祭の一つの楽しみである。楽譜のようなものはなく、代々耳で伝えられている。
[編集] 若連・囃子の構成
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- 山車連盟(若連の連絡組織)・囃子連盟という統括的組織も存在するが、連盟間・連盟内、また行政との関係ではいろいろとくすぶっているのが現状である。
[編集] 歴史
1756年(宝暦6年)より始まる。この前年、いわゆる「宝暦の大飢饉」により、新庄藩は未曾有の大飢饉に見舞われ、領内では多数の餓死者がでた。新庄藩5代藩主の戸沢正諶(まさのぶ)は、領民に活気と希望を持たせると共に、豊作祈願をするため、新庄城(現在の最上公園)内に現存する天満宮の祭典を行った。これが新庄祭の起源である。その当時から山車は存在しており、祇園祭の影響が見られると言う。
新庄祭は年を経るごとに大掛かりになり、いつからか灯篭によるライトアップされるようになる。昭和時代初頭からは、灯篭に代わって山車に発電機を仕込んで電飾によるライトアップが行われるようになり、さらに色鮮やかに飾り付けられるようになった。
市内の道路が舗装される前はデコボコの道路を砂塵を巻き上げながら山車が進行し、まるで人形が生きているように見えたと言う。また、市内に電線が張り巡らされる前は、より大きな山車を作ることに血道をあげていたが、電線が張り巡らされた後は、電線の高さに合わせたほぼ同じ大きさの山車に統一されるようになった。
人手も年々増え続け、それにしたがって有料桟敷席が設けられるなどし、2006年には250周年を迎えた。
[編集] 日程
[編集] 宵祭
- 午前中に、市内全域で祭の準備が始まり、出店の受付と設置が始まる。浮き立つ雰囲気の中、新庄駅前広場では、囃子若連による囃子の演奏コンテストが開催され、ここで最優秀の囃子若連が決まる。
- 正午を期して若連・囃子若連が各町内の山車小屋に集合し、景気付けに囃子を打ち鳴らして気勢を上げてから出発。町内を一周して山車の披露を行ってから市内を練り歩き、夕方4時頃までに宵祭パレードの集合場所に集合(市南部の若連は北町、市北部の若連は金沢が集合場所になる)。夕食と休息をとってから、午後6時に、電飾を点灯し、ライトアップされた山車が隊列を組んで南北方向から新庄駅に向かって運行を開始。市内の交通規制も始まる。
- 午後7時頃に、本町交差点にて両方向の先頭の山車が落ち合う。そして、南北の山車が互い違いに合流して駅前通を運行し、新庄駅前広場を一周、ここで解散して午後9時頃までには各山車小屋に戻る。
- その後は出店に大勢の人が繰り出し、午後11時の交通規制解除まで街全体が騒がしくなる。市内の写真店では、早くも宵祭で撮影された全若連の山車写真セットが山積みされ、販売が開始される。市内の写真店にとっては、写真撮影の腕・現像の早さ・出来を披露する晴れの場であり、競争にしのぎを削っている。
[編集] 本祭
- 午前9時より、最上公園の戸沢神社で新庄祭の元となった例大祭が執り行われる。それに合わせ、全若連の山車がおのおの山車小屋を出発し、最上公園前に集合、市内の交通規制も始まる。
- 午後10時頃に、戸沢神社の氏子からなる大名行列を再現した「神輿渡御行列」が最上公園を出発。神輿渡御行列を先頭に、その後を山車が続く形で、新庄駅前を目指す。そのまま一列縦隊で、新庄駅前広場~末広町~金沢(昼食休憩)~本町と練り歩き、午後3時頃に万場町交差点で解散となる。沿道の一部の家庭では、菰樽に並々と冷えた水を入れて、柄杓や紙コップで曳き手や若連に与える。カルピスやオレンジジュースを出す家もあり、そこには小学生が群がる。大人は菰樽や一升瓶の日本酒に手が伸び、浴びるほど飲む。酔って途中で道路に寝てしまったり、山車内の荷物置き場で仮眠を取るものもいる。
- 解散後は、めいめいが市内を練り歩き、夕方6時頃に各町内に戻り、気勢を上げて解散。これで山車パレードは終了になるため、祭の盛り上がりのピークは過ぎる。ただし、その後も山車は鮮やかにライトアップされる。
- その後は、交通規制が解除される午後11時頃まで出店が騒がしくなる。一部の出店では店仕舞いをするところも出てくる。
[編集] 後祭
- 日時:8月26日(終日)
- 会場:最上公園
- 内容:
- 最上公園の戸沢神社で、市内の仁田山・萩野集落に伝わる鹿子舞が披露される。山車パレードは行われず、終日山車小屋での披露となり、夜はライトアップされる。山車の曳き手をしていた小中学生たちは、現実に引き戻され、母親が出店から買ってきた焼き鳥や焼きそばを食べながら、夏休みの最後の一日、宿題の山に向かうことになる。
- 若連にとっては、この日は山車コンテストの結果が披露される大切な日であり、一日中落ち着かない。3台の山車が表彰の対象になり、表彰されたうちの2台が新庄ふるさと歴史センターに、1台が新庄駅改札前コンコースに一年間展示される。
- 出店業者にとっては、尾花沢花笠パレードに流れる一部を除いてはこの夏最後の営業日となる。およそ午後8時頃まで営業を続け、業者によってはおまけをしてくれる。その後は手早く後片付けをし、午後11時には人っ子一人いなくなってしまう。この光景を見て、新庄市民は、祭の後のたまらない寂しさに心がかき乱され、いつの間にかの肌寒さに秋の訪れを感じる。
[編集] 8月27日
- 小中学校では学校が始まり、普段の何倍にも膨れ上がったゴミを運び出す清掃車や仮設電線を撤去する業者が、慌しく動き回る以外は、街は何事もなかったようになる。その一方、各若連では山車の取り壊し作業が始まる。山車コンテストに入選した若連では、囃子で気勢を上げ、意気洋々と展示場所まで山車を移動させる。前年展示された山車は、早々に元の山車小屋に戻されるが、この年入選しなかった若連では2台分の取り壊しをする羽目になる。
[編集] その他
- 東北の夏祭りを回る出店業者が、新庄祭を最後に夏の営業を終了することが多く、東北や関東一円から多くの出店業者が集まり、最後の営業を行う。
- 祭期間中は、市中心部はほぼ通行禁止となる。山交バスの運行系統も変更になり、乗り場も新庄駅東口に変更される。
- 山車の制作費は、毎年数百万円にもなり、その費用捻出が悩みの種になる。祭期間中は、各若連では「花もらい」と言って、市内の家庭を回り、寄付金を募る行為が昔からの慣習として行われている。当然のことながら、寄付は善意に基づくもので強制ではないのだが、この慣習を知らない市外出身者は突然の「花もらい」の訪問に面食らうようで、一部には「花もらい」を家宅不法侵入などと大げさに騒ぎ立て、新聞に投書する人もいる。「花もらい」は、目安として500円~1,000円程度をポチ袋に入れて寄付し、お礼に山車の由来などが書かれたチラシを貰う形になる。
- 祭一週間後の週末に、山形放送と山形テレビがそれぞれ祭パレードの番組を放送する。一つの祭を2つの放送局が別の番組を作って放送するのは、山形県では珍しい。傾向として、山形放送は本祭の神輿渡御行列パレードを、山形テレビは宵祭の夜間パレードを中心に放送する。
- 近年は、新庄祭の知名度が上がってきたため、大阪市の御堂筋パレードに参加するなど、新庄市以外でも山車巡行を行う機会が増えている。