日本人街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本人街(にほんじんがい)は、日本国外において、日本人が多く暮らす地域のこと。歴史的には日本人町とも言う。
目次 |
[編集] 概要
日本と人的・経済的つながりの大きい国の都市などで、日本人移民や、企業などが派遣した駐在員が場合によって家族を伴いそこへ移住することにより、日本人を対象にした日本食料理店やスーパーマーケット、日本語の本を売る書店などの商店や、日本人向け住宅、日本人学校などの施設などが建てられ、日本人が集中して居住することにより発生することが多い。また中には、日本関連の商店が建ち並んでいるが、日本人自体はその都市の中で点在して居住している場合もある。
[編集] 主な日本人街
[編集] 北米
アメリカ合衆国のロサンゼルスには世界最大かつ最初の本格的な日本人街とされる「リトル東京(リトルトーキョー)」がある。しかし、「リトル東京」やサンフランシスコなど比較的古参の日本人街では、主に土産物屋などの日本人・非日本人向けの日本関連商店が建ち並ぶだけの観光地と化していたり、また現地の国籍を取得し文化的にも同化した日系人により住まれていたりと、有名無実化したものもある。極端な例としてカナダのバンクーバー市のダウンタウンより東へ10分ほど向かったパウエル街周辺にバンクーバーの日本人街があるが、ここは数件の日本食料品店の跡や日本語学校などがあるのみで、昔のロサンゼルスのリトル東京の周辺のように犯罪や貧困が比較的目立つ地域になっており、麻薬などの売買や公園には浮浪者の姿を見かけることもある。なお、サンフランシスコの日本人街は、近鉄グループがホテルなどを所有していたが、同グループの再建策の中で、ロサンゼルスに拠点を集約し撤退することになったことから、存続が危ぶまれる意見もある。
[編集] サンパウロ
ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の中心地にある「リベルダージ (Liberdade)」地区は、街の入口に鳥居や太鼓橋があり、また中心部にも大規模な日本式庭園が設置され、地区全体の街灯が提灯の形をしているなど随所に日本らしさを取り入れた街づくりがされている。日系人が経営するホテルや日本食レストラン、本屋などが立ち並び、サンパウロに住む日本人駐在員や日系ブラジル人だけでなく、多くのブラジル人で活況を見せている。今日においては台湾や中華人民共和国、韓国からの移住者も増え、同時に日系ブラジル人も現地人との同化により他地域へ拡散しつつあることもあって比率を減少させており現在では「東洋人街」とされているが、街づくりや人口比率からして依然として日本人街と呼べるものである。
また、サンパウロには日本人学校や日本人幼稚園、学習塾もあるものの、敷地の問題もあり日本人街の中ではなくその周辺や郊外に設置されている。
[編集] デュッセルドルフ
ヨーロッパにおける多くの日本企業の拠点であるドイツのデュッセルドルフには、百貨店・領事館を中心に、食料品店や書籍店が複数並んでいる。夏には祭りを開催するなど、現地との交流も積極的である。
[編集] ボリビア
ボリビアにあるサンフアン・デ・ヤパカニ移住区には、第二次世界大戦後の1950年代から多くの日本人移住者が住み、現在も国際協力機構の援助などを通じ日本と結びつきを保っているものの、日本とボリビアには経済的な結びつきが少ないため日本人駐在員は在住していない。
[編集] ソウル
大韓民国の首都ソウル特別市には日本人駐在員とその家族など1700人が住むが、そのうち1300人は竜山区二村洞(イチョンドン)に集中している。この地域には日本人向けの商店がそろっているだけでなく、銀行には日本人専用窓口が設けられ、幼稚園には日本人児童クラスまである。
[編集] バンコク
タイに居住する日本人は数万人とも言われ、またその殆どが首都バンコクに集中しており、広大な日本人のネットワークが存在する。バンコク居住の日本人はスクムウィット通りのソイ33/1(BTSスクムウィット線プローンポン駅の近く)を中心に多く住んでおり、この付近には日本人向けのスーパーや日本料理店、本屋も集中している。
[編集] パリ
オペラ座(オペラ・ガルニエ)周辺に日系デパートや銀行、日本人向けの店が集中している。特にガイヨン通り(Rue Gaillon)では、日本料理店、ラーメン屋、酒屋、日本の書籍やビデオを売る店等が軒を連ねている。フランスでは日本のアニメ・漫画・映画に人気があり、また、錦絵の影響から生まれた印象派など、日本文化との交流の歴史があるので、日本人以外にフランス人の客も多い。
[編集] 上海
日本領事館近くの古北(グーベイ)新区に日本人駐在員が集住し、日本人向けの店が集中し「日本村」等と呼ばれている。
[編集] 日本人町
歴史的には、朱印船貿易で日本人が移住した東南アジア諸港に日本人町が形成された。その最大のものはタイのアユタヤ日本人町で、他にもヴェトナムのホイアン、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラにも同様の小規模な日本人町があった。これらの日本人町は、江戸幕府の鎖国政策により日本との往来が途絶えたため、日本人が現地人と同化する形で消滅した。また朝鮮半島では中世に三浦倭館と称する日本人居留地があり、近世には釜山の草梁倭館となった。他にもボリビアのリベラルタにも第二次世界大戦前後に日本人町があったが戦後急速に縮小・同化した。
[編集] 日本租界
19世紀後半から20世紀前半にかけて、列強諸国は中国の主要都市に租界を設置したが、日本も日清戦争後に天津、漢口などで日本人居留地として租界を開設した。これらの日本租界は、一般の日本人街とは異なり、日本が治外法権を獲得したほか、行政機関や警察署の運営も行った。上海には日本租界は存在しなかったものの、アメリカやイギリスとともに共同租界を形成し、日本も列強の一員として行政に参与し、日本人居住者が多かった虹口地区は通称「日本租界」と呼ばれていた。日本租界は中国のほか、日韓併合までの朝鮮にも存在した。
また長春以南の満州各都市には、日露戦争後、日本の国策会社である南満州鉄道が行政運営を行う鉄道付属地が設置され、日本人の都市在住者の多くがここに居住した。