日系人の強制収容
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日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう)とは、太平洋戦争時においてアメリカ合衆国政府によって行われた日系アメリカ人や日本人移民、及びペルーなど中南米諸国に散らばる連合国に在住する日系人と日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。
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[編集] 強制収容開始までの経緯
[編集] 日系人に対する監視
大日本帝国陸軍による仏領インドシナや中国大陸への軍事行動に対して、アメリカ合衆国政府は1941年7月に自国内の日本人資産の凍結、通商航海条約の一方的破棄を通告。その後8月1日には大日本帝国への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増し日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。
その後、12月8日(アメリカ時間では12月7日)に大日本帝国海軍艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。
なお、開戦前に大統領情報部はハワイ・アメリカ本土に住む日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査し、カーティス・B・マンソンは90パーセント以上の2世(その多くはアメリカ国籍を持つアメリカ人)、75パーセント以上の1世(日本国籍を持つ日本人を含む)は合衆国に対して忠誠であるということを報告していた。
しかしながら、イシミツ・シンタニとヨシオ・ハラダの2人の日本人が日本軍捕虜の脱走を手助けをした「ニイハウ島の戦い」や、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の計画を手助けをした日系アメリカ人のリチャード・コトシロド等の例が、アメリカ軍や政府内の保守派による、日系アメリカ人に対する人種差別的偏見を基にした批判的な論調を後押しすることになる。なお、この様な反逆的な事例はドイツやイタリア系アメリカ人の間にも多数見られたが、これらの人々に対する批判的な論調は一過性のものに過ぎなかった。
[編集] 強制収容計画の推進
[編集] 軍統制の模索
カリフォルニア州の防衛に責任のあったジョン・L・ドゥウイット陸軍中将やアレン・W・ガリオン陸軍憲兵司令長官は、かねてから日本軍の本土進攻に備えた文民統制から軍統制への方法を模索していた。しかし、民間出身であるヘンリー・スティムソン陸軍長官が興味を示さなかったため、彼らは独自の計画によりカリフォルニア州を含むアメリカ西海岸の軍統制の道を模索していくことになった。
その様な中、日本による真珠湾攻撃が行われてから数週間が過ぎた12月30日にフランシス・ビドル法務長官は、日本国籍を持つ日本人移民の家のみならず、少なくとも居住者の1人が「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を、令状なしに捜査する権限を与えたことで、憲法修正4条はもはや適用されない趣旨を提言した。
ガリオン長官率いる陸軍憲兵司令室は、文民統制を主張する司法省との競合のなかで、カール・R・ベンディッツェン陸軍少佐を太平洋沿岸州に送り込み、彼を通すことでジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長を無視して「敵性外国人」の「強制収容所(Concentration Camps)」への強制収容を秘密裏に計画することになった。
[編集] 日本軍本土上陸への恐怖
なお、日本海軍による開戦当初の怒涛の進撃と、アメリカ軍を含む連合軍の度重なる敗退を受けて、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、戦争開始後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。
また、当初は軍統制に興味を示さなかったスティムソンは、日本海軍による太平洋沿岸部への空襲を「戦争開始後一ヶ月の間に行われる可能性は高い、そして日系人がそれに重要な手助けをする危険性は払拭できない」と証言し、西海岸区域の軍統制を後押しした。
[編集] 大統領行政令9066号
その後、アメリカ軍を含む連合国が敗退の一途をたどっただけでなく、開戦から3ヶ月を経た1942年2月に行われた日本海軍潜水艦によるカリフォルニア州の製油施設への砲撃やカナダのバンクーバー島のカナダ軍施設に対する砲撃、西海岸沿岸におけるアメリカ、カナダ船舶に対する度重なる攻撃などもあり、日本軍によるアメリカ本土上陸が近いと喧伝され、政府上層部がその対応に追われるなどアメリカ人の反日感情はピークに達していた。
これらの流れに勢いづいた陸軍省は軍統制を主張するため司法省を説き伏せ、また司法省も法の理念を守り通すことができなかった。こうして1942年2月に、当時中国大陸において日本軍と対峙していた連合国の一国である中華民国の蒋介石の妻の宋美齢と親しい「親中派」であり、その反動として反日感情が強いことで知られたフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名を行い、軍が必要がある場合(国防上)に強制的に外国人を隔離することを承認するのであった。
なお、この法令はすべての「敵性外国人」に向けたものとされ、実際にアメリカ国内において一時的に強制収容された半数以上は日系人であったものの、残りの半数近くはドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫を含むヨーロッパ系の人々であった。さらにアメリカが経済的・政治的に大きな影響力を持っていた中南米諸国でも、日系人のみならず、ドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含むヨーロッパ系移民とその子孫が一時的に強制収容された。
こうして、アメリカ国内においては日本人移民と日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人(従軍中のものは除く)は全て逮捕、拘束され収容所へ送られることとなった。
[編集] 日系人だけに対する仕打ち
その後、日本海軍の乙型大型潜水艦「伊号第一七潜水艦」などによるアメリカ及びカナダ沿岸に対する砲撃や、日本海軍艦艇の搭載機によるアメリカ本土空襲と同じく、ドイツ軍の潜水艦によるアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾における通商破壊作戦、ドイツ軍のスパイによるアメリカ国内におけるテロなどの破壊行為が多数報告された。
しかし、在米ナチス党員やファシスト党員など本国政府との結びつきが強く、スパイ行為やテロなどの破壊行為などに携わる可能性があると思われるもの以外の殆どのドイツ系やイタリア系移民とその子孫は速やかに釈放された。しかし、日本人移民と日系アメリカ人については、逆にそのほぼ全てが釈放されないままであった。
[編集] 日本人外交官、駐在員への扱い
なお、開戦後に日系アメリカ人や日本人移民と同じくアメリカ当局によって抑留された、アメリカとアメリカの影響圏の中南米諸国に在留、駐在していた外交官や大企業の駐在員、留学生などの日本人は、その後日系アメリカ人や日本人移民に対して行われた強制収容の対象とはならず、アメリカ内陸部の保養地などに軟禁され、(あえて残留を望んだものを除いては)その後1942年から1943年にかけて2回に渡り日米間で運行された交換船により帰国させられた。なおこの際、同じく日本とシンガポールなどの日本の占領区域、満州国などの日本の影響圏に在留、駐在していたアメリカ人外交官や企業駐在員、留学生も、同じく交換船によりアメリカに帰国した。
[編集] 強制収容
[編集] アメリカ日系人
![アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系人](../../../upload/shared/thumb/a/a0/SanPedro_to_SantaAnita.gif/220px-SanPedro_to_SantaAnita.gif)
その後、カリフォルニア州などのアメリカ西海岸沿岸州と、ハワイの一部の地域に居住する日系人と日本人移民約120,000人は強制的に完全な立ち退きを命ぜられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に入れられることになった。しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館や競馬場の馬舎であった。
また、当時アメリカの準州であったハワイ在住の日系人と日本人移民の大部分は、ハワイへの日本軍の上陸の危機が騒がれていたものの強制収容の対象とはならなかった。これは日系人が当時のハワイ住民の約60%を占めるなど現地当局への影響力が強かったこともあり、様々なケースを想定した上で最終的に当局が収容を拒否した結果である。
当然のごとく彼らは何の補償も得られず、家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれ、これまで従事していた仕事も失うことになった。中にはすべての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。なお、この強制立ち退きと強制収用に対する日系人による組織的な抵抗運動などは起こらなかった。
[編集] 南米日系移民
1942年4月18日、ペルーの首都・リマのアメリカ大使館からジョン・エマーソン書記官(後の駐日特命全権大使)が国務省あてに「ペルーの日系人が危険である」と報告した。
1942年12月から1945年にかけて、その殆どが連合国として参戦、もしくは連合国よりの政策を取っていた中南米諸国家に対して出された日系人及び日本人移民のアメリカへまたは現地の強制収容要請により、ペルーやボリビアなど13カ国で現地の国家の警察により、アメリカ合衆国大使館が「日系人社会に影響力がある」という戦争とは関係のない理由で指定する日系人及び日本人移民を逮捕し、アメリカ海軍の艦艇でアメリカに連行。「正規の入国手続きを経ていない不法入国」を理由に逮捕し、テキサス州クリスタルシティの移民労働者用のキャンプに強制収容され、一部についてはアメリカ軍兵士と交換船により捕虜交換された。また、その人数が多いこともありアメリカには送らなかったものの、メキシコでは2ヵ所、ブラジルでは1カ所の強制収容所に日系人及び日本人移民を収容した。
最終的にアメリカ政府は、のべ13カ国に住む2264人の日系人及び日本人移民を強制連行し、そのうち1771人(80%)はペルー移民及びその日系子孫のペルー人であった。
[編集] 他の連合国における強制収容
アメリカや南米諸国の他にも、アメリカと同じく連合国として日本と対峙していた隣国のカナダや、太平洋地域における主要連合国の一員であるオーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、オーストラリア及びその周辺諸国においては、約4,000人が強制収容された。
[編集] 強制収容所
[編集] 所在地
全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、銃口は常に収容所内部に向けられていた。
- カリフォルニア州マンザナール (Manzanar)
- カリフォルニア州ツールレイク (Tule Lake)
- アリゾナ州ポストン (Poston)
- アリゾナ州ヒラ・リバー (Gila River)
- ワイオミング州ハート・マウンテン (Heart Mountain)
- アイダホ州ミニドカ (Minidoka)
- ユタ州トパーズ (Topaz)
- アーカンソー州ローワー (Rohwer)
- アーカンソー州ジェローム (Jerome)
- コロラド州アマチ (Amache)
- テキサス州クリスタル・シティー (Crystal City)(司法省が管轄する拘置所)
[編集] 施設
![マンザナール強制収容所内の畑](../../../upload/shared/thumb/9/94/Ansel_Adams_-_Farm_workers_and_Mt._Williamson.jpg/220px-Ansel_Adams_-_Farm_workers_and_Mt._Williamson.jpg)
強制収容所内には各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り、外部に出ることはできなかった。
なお、電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中ということもあり基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)は強制収容所内の農場で獲れた作物があてがわれていた。
[編集] 住居
収容者の住居に宛がわれた建物は「バラック」というべき粗末なもので、家具も粗末なものしか与えられず、トイレの多くは仕切りすらなかった。また、この様に衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。
[編集] 暴動
僻地にある粗末な強制収容所に収容され行動の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われ強制収容所に収容された日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されたものもいた。
[編集] 「忠誠登録」
なお、強制収容所内では、日本人移民のみならず、アメリカ国民である日系アメリカ人収容者に対しても数度に渡りアメリカ政府に対する忠誠心の調査が行われ、その結果は登録された。
特に、1943年1月に陸軍内に強制収容所の収容者を中心とした日系人部隊を編成するために、18歳以上の日系人男性に対して強制収容所内で行われた「出所許可申請書」における日本政府とその元首である天皇に対する不忠誠と、アメリカ政府と軍に対する忠誠を問う質問とその答えは、日本生まれで日本国籍を持つ「1世」と、アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ「2世」の間における断絶をはっきりしたものにし、その後の強制収容所における闘争を加速させることになった。
[編集] アメリカ政府内における批判
この様な人種差別的かつ明らかに違法な強制収用に対し、開戦直後の1941年12月に、陸軍からのプレッシャーに屈して「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、この様な行き過ぎた状況を憂慮していたフランシス・ビドル司法長官が、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している。しかしこの発言は、太平洋前線における日本軍の怒涛の進撃の勢いこそ衰えたものの、日米両国軍が一進一退を続けていた当時、政府内外において例外的な少数意見でしかなく大きな影響力を持つものとはならなかった。
また、1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J.ロバートも、当時アメリカ政府が日系人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、その欺瞞表現を批判した。
[編集] 被害
[編集] 財産放棄
上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。しかもその後長年に渡り強制収用時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。
[編集] 言葉だけの「財産保全」
なお、強制収用の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系人の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、強制収用という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理、保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、その様なことに成功したのはほんのわずかであった。
[編集] 市民権剥奪
また、強制収用に伴いアメリカの市民権を剥奪された日系アメリカ人の市民権は、サンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカを始めとする連合国による日本占領が終了した翌年の1952年6月に行われた、マッカラン・ウォルター移民帰化法の施行まで回復されなかった。
[編集] 戦後の評価
[編集] 最悪の人種差別政策
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対し全面降伏し、9月2日に降伏文書に署名したことに伴い日系人に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖された。
しかし、上記にあるように、大戦開始当時より自国を「自由で平等な民主主義国」と自賛するアメリカにおける、この様な長期に渡るしかも無差別の強制収容政策は、日系アメリカ人と同じく「敵性外国人」であるはずのイタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人種諸集団に対しては行われなかったため、黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策として、戦後、特に公民権運動が活発になり、人種問題についての公的な発言が自由に行われるようになった1960年代以降、多くの政治家や法曹関係者、歴史家や人権活動家から批判された。
[編集] 謝罪
![第442連隊戦闘団を閲兵するハリー・トルーマン大統領](../../../upload/shared/thumb/7/74/Trumanand442.gif/220px-Trumanand442.gif)
[編集] 日系アメリカ人
この様な動きを受けて、第二次世界大戦の終結後40年以上経った1988年にロナルド・レーガン大統領は、「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、1人当たり20,000ドルの損害賠償を行った。
レーガン大統領は、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた第442連隊戦闘団に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。
[編集] 日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。残る300人はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てをおこないアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。その後1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は正式に、アメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。
[編集] 史跡保存
2006年に、アメリカ両院は日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によってアメリカの歴史にとって重要な史跡として保存する法案を可決した。
[編集] 関連項目
[編集] 著名な収容者
- ノーマン・ミネタ
- マイク・ホンダ
- ジョージ・タケイ(『スタートレック』シリーズなどで有名な日系アメリカ人俳優。少年時代であった戦時中を、ツールレイク収容所で過ごした)
- ミノル・ヤマサキ
- イサム・ノグチ
[編集] その他
[編集] 外部リンク
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