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日根野 吉明(ひねの よしあき、1587年(天正15年) - 1656年4月20日(明暦2年3月26日))は、江戸時代前期の大名。日根野弘就の孫で、日根野高吉の長男。正室は松平一生の娘。
慶長5年(1600年)6月、父が病死したために諏訪藩主の座を継いだ。関ヶ原の戦いでは東軍に与して上杉景勝征伐では徳川秀忠軍に従軍して宇都宮に赴く。その後、信濃国上田城の真田昌幸(西軍)の備えに回った。慶長6年(1601年)、若年という理由から下野国壬生藩1万2000石(一説には1万5000石)に減封された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣には徳川方として従軍し、功を挙げた。その後、幕府のために日光東照宮の造営など尽力し、それらの忠勤が認められて豊後国府内藩2万石に加増移封された。明暦2年(1656年)3月26日に死去。法名は渓松院殿月峯浄覚大居士。死の直前、幕府に末期養子を願い出たが、当時の規定では末期養子が認められるのは当主の年齢が17歳以上50歳未満に限られていたため、数え69歳の吉明の願い出は受け入れられず、吉明の死をもって大名としての日根野氏は断絶となった(一族は旗本として存続した)。