曹騰
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曹 騰(そう とう、生没年不明)は、後漢の宦官である。字は季興。曹操の祖父(血縁はない)としても知られる。父は曹萌(曹節)で、その末子。曹嵩(曹操の父)の養父に当たる。諡号は高皇帝。
[編集] 略歴・人物
[編集] 生涯
父・曹萌は、名士で前漢の恵帝の時に相国となった曹参の子孫とされるが疑わしい点が多い。仮に曹騰が曹参の末裔なら少なくとも通常は宦官にはならないのが普通である(或いは劉邦を裏切り、惨殺された曹無傷の子孫との説もある)。順帝、冲帝、質帝、桓帝の四代に仕え、宦官の最高位である大長秋まで昇りつめた。宮中に入って30余年、一度も過失を起こさなかった。性格は「勤厚」といわれ、人の恨みを買わず、人を思いやり情に厚い人であったという。名士を好み推薦した。
120年(永寧元年)当時、時の皇帝は安帝であり、鄧太后が摂政していた。その年、曹騰は、安帝のただ一人の皇子、皇太子保づきの宦官の一人として択ばれ仕えることなった。曹騰は、皇太子と共に学問もしたので宦官としてはめずらしく教養があった。この皇太子の最大の庇護者は鄧太后であったが、121年(永寧二年)3月に崩御してしまった。鄧太后がその人格を疑い親政を許そうとしなかった安帝が親政をはじめた。安帝は以前から反鄧氏の思想を側近・乳母・閻皇后に植え付けられており、親政開始直後から鄧氏一族を庶民に落とし大将軍・鄧騭と鄧鳳父子は、太尉・楊震と共に食を絶って自殺してしまった。閻皇后は自分の思いのままになる皇子を帝位につけることを望んだ。そのような中、安帝の乳母の野王君と皇太子の付き人が騒ぎを起こし、野王君に恨まれ、挙句に安帝に讒言した。これにより、皇太子を守り続けた側近の半数が無実の罪で追放された。曹騰はこのとき追放されなかった。さらに、野王君と閻皇后はそろって皇太子の非を訴えとうとう廃嫡させた。124年(延光三年)、皇太子は済陰王に落とされた。
125年(延光四年)3月、巡行中の安帝が病のため崩御した。遺体が洛陽につき、訃報に接した済陰王と曹騰は、殯宮に向かったが、官人に止められ棺に近づくこともできなかった。閻太后一派は北郷侯を擁立した(少帝)。しかし、その年の冬には、少帝は病に倒れ崩御してしまう。閻太后一派は新たに皇帝を擁立するため王子を召致する使者を発した。この時、水面下で孫程という宦官が奔走し閻氏一族を除こうとしていた。数日後、孫程たち19人の宦官は決起して 閻一派の大長秋江京を刺殺し、李閏を味方に付けた。済陰王は西鐘下で即位した(順帝)。その日の攻防で閻一族を排斥するのに成功し順帝の治世が始まった。この功で、孫程ら19人の宦官は初めて列侯に封ぜられた。順帝の側近たる曹騰も小黄門(俸給六百石)に任ぜられた。
135年(陽嘉四年)に、上級宦官に養子を許し爵位を次ぐことを許すという法令がだされた。138年(永和三年)、前後に曹騰若くして中常侍に任命された。曹騰は順帝の側近中の側近になっていたのだろう。このころ養子をとったようで、嵩という少年であった。嵩が後にもうけるのが曹操である。さて十二月ごろ、梁商と曹騰の順帝からの信用振りを快く思わないものがいた。中常侍の張逵、蘧政、楊定の三人がそれで、あらぬ噂を流して失脚させようとしたが順帝一笑にふし、噂の出所を調べさせた。あせった三人は、偽の詔命をつくり曹騰と孟賁を牢に送った。このことを知った順帝は、「騰と賁を釈放せよ」と宦官を急行させ、勅使の宦官は二人を助け例の三人をとらえ逆に牢に送った。曹騰は間一髪助かった。順帝は他にも徒党がいると思い調査させ、共謀したものたちを捕らえ、翌年、例の三人を処刑し、共謀したものも死罪となった。連座されて大臣や高官が多く罰され政治が滞ることを危惧して、梁商は順帝に捜査のうちきりを進言し聴許をえた。
140年(永和五年)、心労のため梁商が病没し、順帝は梁皇后の兄梁冀を大将軍に据えた。悪臣梁冀の横暴さは少しづつ表れたが、順帝は彼をしりぞけず、李固や杜喬といった良臣を用いて抑制しようとした。順帝に信用されていた曹騰に蜀郡の太守が賄賂を送ろうとした。これを洛陽に上る計吏に託した。しかし、益州刺史・(禾+中)=チュウ暠は汚職を嫌う士で、蜀郡の太守の罪悪を調査中でそんな中郡府を出発した役人に目をつけ、斜谷関で逮捕し曹騰宛の書簡を見つけた。さっそく(禾+中)暠は上奏して太守を告発し、曹騰もあわせて調べるよう請うた。順帝は、「書簡は外から来たもので騰の過ちではない」といい、(禾+中)暠の上奏を容れなかった。曹騰は無論そのことを知ったが、「(禾+中)暠は有能な官吏です」と言ってほめた。人々は感嘆して曹騰は大度の人だといった。後に(禾+中)暠は司徒になり、ある時賓客にこう語った。「わたしが三公の位にあるのは曹常侍のおかげである」と。曹騰は、このように人を批判せず、むしろ名士などを皇帝に推薦した。例えば、陳留の虞放・辺韶、南陽の延固・張温、弘農の張奐、潁川の堂谿典など賞賛推薦した。これらは皆、公や卿になったが、曹騰はこれを誇らなかった。
144年(漢安三年)、順帝は炳を皇太子にして、改元して建康元年としたが、夏に食欲が減退し八月に崩じた。順帝が死病にかかってから曹騰は殉死を考えていたが順帝はそれを許さなかった。ほどなくして炳が即位し(冲帝)し、梁皇后が太后となり摂政をした。しかし、翌年145年(永嘉元年)、冲帝が崩御した。皇帝候補に済河王蒜が有力であり、李固などの賢臣は済河王を望んでいた。しかし、梁冀は済河王が人となりがよく挙止も法度があることから自分が更迭されることを懼れまた自分が好き買ってできないことを嫌がって渤海王の子わずか八歳の劉纘(質帝)を推そうとしたが、梁太后が本当に済河王を推しているのか確かめておく必要があった。そんな時、曹騰が梁冀に「挨拶をどうしましょうか」と聞いた。梁冀は「渤海王のとこに挨拶に行ったほうが善い。済河王には行くに及ばない」と独断できめた。曹騰は実際そのようにした。梁冀は梁太后に幼帝を擁して好き勝手しようという様なことを言ったが、梁太后は「英邁なかたに皇帝についてもらうほうがよいです」といってきかなかった。そこで渤海王にあったはずの曹騰を呼び梁太后に証言させた。曹騰は渤海王を見たままに「聡明な王子です」と証言し、先帝(安帝)が信じていた宦官を梁太后も信じ渤海王を擁立した。このことを知った済河王は激怒した。
渤海王が即位した(質帝)。しかし、六月の朝会で質帝は梁冀に対して「この者は跋扈将軍である」と言った。梁冀は怒り狂いとうとう九歳の皇帝を毒殺してしまった。ここで、また後継者問題がおこり、李固は急ぎ前回皇帝になれなかった済河王に使者を送った。一方、梁冀は蠡吾侯志を招いていた。三公六官・高官・そして梁冀でどちらを皇帝にするか協議された。大体は済河王を推したが梁冀が蠡吾侯を推し続け決まらなかった。
曹騰は、そのような中済河王を訪ねた。前回、済河王に挨拶しなかったのが非礼だったと思ったからだ。しかし、済河王は宦官を嫌っており、その上前回のようなことがあったので曹騰を大層嫌い抜いていた。済河王の側近は曹騰に、庭先のわらが謁見の席であることを示し「暫時またれよ」と言って退いた。曹騰はむっとしたが、敷物をさけて土の上に座り、長時間待ったが済河王は現れない。曹騰はとうとう立って、済河王を非難して立ち去ろうとした。すると、物陰から現れた済河王は「私が皇帝になったらお前ら宦官を追放してやる。靴をいっぱい用意しとけ」と冷言あびせた。曹騰は怒りで震えながら、「靴を用意しなければならないのはどちらでしょうか」と言い立ち去った。
夜、曹騰は梁冀邸を訪れた。曹騰は、済河王が皇帝になったときの不利と蠡吾侯が皇帝になったときの有利を説いた。この決定が生死興亡をわかつとようやく悟った梁冀は翌日の選定会議で無理やり蠡吾侯を後嗣に決定した。李固は上疎して済河王を後嗣にするよう梁太后に願った。しかし、梁太后はもともと妹を蠡吾侯に嫁がせようと思っていたので、そこを梁冀につかれ、梁太后は私事を優先してしまった。蠡吾侯が即位した(桓帝)。桓帝即位後、曹騰は列侯となり費亭侯に封ぜられ、皇后府の長官で宦官の最高位である大長秋に任ぜられ、功臣に授けられる特進という称号を授与された。曹騰はその後ほどなくして、40代で引退したと思われる。その没年は不明であるが、孫の曹操に影響を与えたのは揺るがしがたく思われ、曹騰の気風は養子の曹嵩ではなく、養孫の曹操に受け継がれた。
曹操の世子の曹丕が、後漢から禅譲を受けて、魏の皇帝となった後に、229年(太和三年)に、「高皇帝」と追尊された。
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