曽呂利新左衛門
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曽呂利 新左衛門(そろり しんざえもん)とは、豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという。
架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。
2世 曽呂利 新左衛門(2せ そろり しんざえもん、1842年10月15日 - 1923年7月2日)は、大阪生まれの上方噺家。本名: 猪里重次郎。享年81。
大阪新町の友禅染屋に生まれる。幼少時から素人落語に加わり、猫丸、夢丸、かしくなどを名乗る。しかし、このことにより父から勘当され、やむを得ず幇間となって、京都で千九八、大阪堀江で観八を名乗る。
1865年、初代笑福亭松鶴門に入り、京都笑福亭で高座を務め、2代目松竹となる。後、大阪に戻り笑福亭梅香を名乗るが、師匠・松鶴が亡くなったため、新町九軒末廣亭にて松竹亭梅花と改める。1869年10月、座長となり、再び旧名の梅香を名乗る。1973年3月、初代桂文枝門下に移り、初代桂文之助を名乗る。同門の初代桂文三(2代目桂文枝)、2代目桂文都(月亭文都)、初代桂文團治と共に、「四天王」として至芸を称えられた。
1886年、絵画の師である久保田米僊の勧めにより、2代目(「偽」との洒落で「2世」と自称した)曽呂利新左衛門に改名。後に三友派の会長を勤め、1910年、68歳で引退。風流三昧の余生を過ごした。
大ネタよりも、軽い小噺や、座敷芸などで本領を発揮した、どちらかというと才人肌の人であった。上方で膝隠しと見台を使わずに演じた最初の噺家とされる。また、多くの新作・改作をも物にし、達者な筆遣いで活字化している。
1914年6月には「香典保存会」と称して生き葬式をしたり、死後の本葬では寺中を桜の造花で飾りつけたりと、風流な奇行でも知られた。墓所は大阪市天王寺区の隆専寺。法名: 轉譽法輪漁仙居士。
弟子には2代目桂文之助、浮世亭○○(マルマル、後の川上音二郎)らがいる。