桂文團治
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桂 文團治(かつら ぶんだんじ)は、上方落語の名跡。文団治とも表記する。初代が、師匠・桂文枝の「文」、歌舞伎の初代市川右團次の「團」、桂派の宗家・桂文治の「治」から「文團治」としたのが始まり。4代目の死後は空き名跡となっている。
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[編集] 初代
初代 桂文團治(1842年 - 1886年9月14日)は、本名: 鈴木清七。享年44。
元は米屋の養子であったという。後に初代桂文枝門下で初代桂米丸(あだ名は桂塩鯛)を経て、文團治を名乗る。同門の桂文三(後の2代目桂文枝)、桂文都(後の月亭文都)、桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)らと共に「四天王」として称えられた。
明治10年代、平野町御霊神社に自席を営み、その実力、人気共にずば抜けていた。新聞落語なども手掛けたようだが、あくまでも正統派で、文三の当初の対抗馬はこの文團治であった。しかし、1886年、3代目桂文吾、4代目林家正三と同じく、流行のコレラのため若くして死去。道頓堀に新しく一門の寄席を作った矢先であった。
なお、『米揚げ笊』はこの初代の作といわれる。
[編集] 2代目
2代目 桂文團治(1847年 - 1928年9月18日)は、後の7代目桂文治。本名: 平野次郎兵衛(治郎兵衛、治良兵衛、治良平など諸説あり)。享年81。
[編集] 3代目
3代目 桂文團治(1856年 - 1924年4月9日)は、本名: 前田七三郎。享年68。
道頓堀金屋町の公儀銅吹屋・大阪屋儀兵衛の一人息子として生まれるが、明治維新で生家が廃業となり、商家へ丁稚奉公をする。16歳の時からは放蕩を覚える。
23歳の時、立川三玉齋門下に入門し、三吉を名乗る。三玉齋の死後、2代目桂文枝門下に移り文朝、更に3代目林家菊枝門下で菊松。その後、初代文團治門下に移り、初代米朝、順朝となるが、極道のため師の勘気を蒙り、初代米團治(後の2代目文團治)に預けられ、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。
住所から「畳屋町」と呼ばれ、師匠と共に睨みを利かせていた。大看板として噺振りには艶があり、風格の有る人物であったという。『五人裁き』『立ち切れ線香』、後には『蜆売り』『鴻池の犬』などを十八番とした。
また、寸鉄人を刺す皮肉や小言を良くしたため「大毛虫」と呼ばれ、その弟子の3代目米團治も気障な所がそっくりで、「小毛虫」と呼ばれた。
元々極道者であり、腹部には女の生首、全身に花札の彫り物を散らしていた。座敷では裸になってその花札を数えさせ、どうしても一枚足りない所で、片足を上げると、足の裏には雨のカス札が彫ってある、という趣向で受けたという。
晩年は喉頭癌となり、1924年4月の引退興行では声が出ず、涙を誘ったという。師匠の2代目に先立って亡くなった。
ちなみに、俳優の嵐寛寿郎は、3代目文團治の義理の孫(妻の前夫が人形浄瑠璃の初代桐竹紋十郎で、その孫)に当たる。
[編集] 4代目
4代目 桂文團治(1878年8月6日 - 1962年12月14日)は、本名: 水野音吉。享年84。
1894年、2代目桂米團治に入門して麦團治。次に初代三笑亭芝楽(「しばらく」と読む、後の桂文光)門下で2代目小芝。次に三升家紋彌(後の三升家紋右衛門)門下で紋兵衛。1921年以降、旅興業などで講談を手がける際は杉山文山(「杉山」は当時の住所の森之宮杉山町から)を、落語家としては再び桂麦團治を名乗る。1949年ごろ、4代目文團治を襲名。戦後は半ば引退した形であったが、上方落語界の人材が払底する中、橘ノ圓都らと共に長老として再び高座に上がることとなった。
得意演目は『島巡り』『三十石』『鬼あざみ』『帯久』『らくだ』など、膨大な持ちネタを誇った。歴代の桂春團治に『鋳掛屋』を伝え、3代目には『高尾』も稽古付けた。
戦前の高座では、講談のほか、「霊狐術」(一種の超能力を装った手品)や「新粉細工」など、色物としても豊富なレパートリーを誇り、芸の虫であった。
また、巨躯から「ゴジラ」の愛称で親しまれた。喘息持ちで、死因も喘息による心臓発作であった。天理教信者。
弟子には4代目桂文紅、実子の桂一二三(後の曽我廼家勢蝶)らがいた。
[編集] 出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『桂春団治』(富士正晴著)
- 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年)
- スカイ・A らくごくら(WEB編 上方落語こぼれ話) 6月バックナンバー 「米朝一門の名前」
- 米朝よもやま噺 放送内容 4月16日第51回 - 「大毛虫」のあだ名を2代目文團治としているが、3代目文團治の誤り。