本多忠統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 元禄4年6月18日(1691年7月13日) | |||
死没 | 宝暦7年2月29日(1757年4月17日) | |||
別名 | 恒弥(幼名) | |||
諡号 | 奇蘭、大乾、宗範、拙翁 | |||
戒名 | 長徳院浄誉拙翁円徹 | |||
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 | |||
幕府 | 江戸幕府若年寄 | |||
官位 | 従五位下、伊予守 | |||
藩 | 河内西代藩主→伊勢神戸藩主 | |||
氏族 | 本多氏 | |||
父母 | 父:本多忠恒 | |||
兄弟 | 仙千代、本多忠統 | |||
妻 | 正室:加藤明英の娘 側室:松氏 |
|||
子 | 本多康桓、小笠原信胤、本多忠篤、 本多忠栄、本多忠永、本多忠明、 本多忠国、本多康政、娘(藤堂良由室)、 娘(藤堂良端室)、娘(松平信敏室)、 娘(本多忠英室→吉田良延室) |
本多 忠統(ほんだ ただむね)は、河内西代藩の第2代藩主。のちに伊勢神戸藩の初代藩主となる。江戸幕府の若年寄として、享保の改革期における幕政に参与した。
[編集] 生涯
[編集] 西代藩主時代
元禄4年(1691年)6月18日、西代藩の初代藩主・本多忠恒の子として生まれる。兄の仙千代が早世したために世子となり、宝永元年(1704年)に父が死去したため、家督を継いで第2代藩主となる。
宝永4年(1707年)3月23日、第5代将軍・徳川綱吉の小姓となり、綱吉死後の宝永6年(1709年)2月21日まで務めた。享保4年(1719年)9月3日に大番頭に任じられた後、享保9年(1724年)12月23日には奏者番と寺社奉行を兼任する形で任命され、享保10年(1725年)6月11日には若年寄に任じられて、第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与することとなった。享保15年(1730年)4月9日には勝手方に任命された。
享保17年(1732年)4月1日、伊勢神戸藩に移封となる。なお、正徳元年(1711年)に西代(大阪府河内長野市西代町)に陣屋を構えたことから、西代藩の初代藩主は忠統であるという見解もある。
[編集] 神戸藩主時代
享保の改革では、松平乗邑と共に吉宗を助けて改革を推進した。その一方で享保の飢饉において神戸藩が大被害を受けると、窮民救済に務めている。延享2年(1745年)、吉宗の命令で徳川家重付の家臣となり、同時に5000石加増と神戸城築城も認められ、1万5000石の大名となる。
延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝が板倉勝該に斬殺されるという事件が起こると、その解決や細川氏存続に尽力している。寛延3年(1750年)、病気を理由に若年寄を辞任し、11月19日には5男の本多忠永に家督を譲って隠居した。
宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。
当時においては、茶人としても有名だったといわれている。
|
|
|
|
|
|