神戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神戸藩(かんべはん)は伊勢国河曲郡周辺を領有した藩。藩庁は神戸城(三重県鈴鹿市神戸)。
目次 |
[編集] 略史
神戸城2万石の城主であった滝川雄利は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに於いて西軍に属したため改易となった。代わって慶長6年(1601年)、尾張国黒田城(愛知県一宮市木曽川町)3万5000石の城主であった一柳直盛が5万石で入封し、神戸藩が成立した。
寛永13年(1636年)、直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。これにより同地は天領となり神戸城も主要な建築物は破却された。
慶安4年(1651年)、近江国膳所藩主・石川忠総の次男・石川総長が、忠総の遺領のうち神戸周辺の1万石を分与されたため、神戸藩が再興した。総長は万治3年(1660年)、大坂定番となり河内国内に1万石の加増を受けた。第3代藩主・石川総茂は弟の大久保忠明に3000石を分知したため、1万7000石となった。享保17年(1732年)には常陸国下館藩に転封となった。
代わって河内国西代藩より、本多忠統が1万石で入封した。延享2年(1745年)には5000石を加増され、以後、1万5000石が当藩の知行高となった。若年寄に就任していたことにより築城を許され、寛延元年(1748年)には神戸城が再興された。忠統は文人大名として有名で、荻生徂徠の門人であった。また、茶人であり「宗範」の号を持っていた。藩校を興し、城内に「三教堂」を、江戸藩邸に「成草館」を構えた。
第5代藩主・本多忠升は享和3年(1803年)に倹約令を出し、自身も食事制限を行った。また、藩校を改革し文化10年(1813年)、城内の藩校を「教倫堂(こうりんどう)」、江戸の藩校を「進徳堂」とした。また、従来の古学から朱子学に変更した。
第6代藩主・本多忠都時代の嘉永7年(1854年)には「安政東海地震」が起こり、神戸城と城下町は大破し47人の死者が出た。
明治4年(1871年)、廃藩置県により神戸県となった。その後、安濃津県を経て三重県に編入された。藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 一柳(ひとつやなぎ)家
外様 50000石 (1601年~1636年)
- 直盛(なおもり)〔従五位下、監物〕
[編集] 天領
(1636年~1651年)
[編集] 石川(いしかわ)家
譜代 10000石→20000石→17000石 (1651年~1732年)
- 総長(ふさなが)〔従五位下、播磨守 大坂定番〕加増により2万石
- 総良(ふさよし)〔従五位下、若狭守〕
- 総茂(ふさしげ)〔従四位下、近江守〕分知により1万7000石
[編集] 本多(ほんだ)家
譜代 10000石→15000石 (1732年~1871年)
- 忠統(ただむね)〔従五位下、伊予守 若年寄〕加増により1万5000石
- 忠永(ただなが)〔従五位下、丹後守〕
- 忠興(ただおき)〔従五位下、丹後守 大坂加番代〕
- 忠奝(ただひろ)〔従五位下、伊予守 大坂加番代〕
- 忠升(ただたか)〔従四位下、下総守 大坂加番代〕
- 忠寛(ただひろ)〔従五位下、伊予守 大坂加番代〕
- 忠貫(ただつら)〔従五位下、河内守 山田奉行〕
[編集] 西代藩
延宝7年(1679年)、近江国膳所藩第2代藩主・本多康将の次男・本多忠恒は、河内国錦部郡・近江国高島郡・甲賀郡において1万石を分知され、西代藩が立藩した。
第2代藩主・本多忠統は正徳元年(1711年)、西代(大阪府河内長野市西代町)に陣屋を構えた。忠統は大番頭・寺社奉行と昇進し、享保10年(1725年)には若年寄に累進した。享保17年(1732年)、伊勢国神戸藩に転封となり廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
- 本多(ほんだ)家
譜代 1万石 (1679年~1732年)
- 忠恒(ただつね)〔従五位下、伊予守〕
- 忠統(ただむね)〔従五位下、伊予守 若年寄〕